人格者・東家愛楽

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人格者・東家愛楽

 人 物

 東家あずまや 愛楽あいらく
 ・本 名 齋藤 力之助
 ・生没年 1883年1月15日~1931年5月2日
 ・出身地 東京 神田

 来 歴

 東家愛楽は戦前活躍した浪曲師。人格者として知られ、浪曲界の良心として活躍した。戦後、ケレン浪曲で一世を風靡した相模太郎の師匠でもある。

 経歴は1913年発行の『代表的人物及事業』に詳しく書いてあった。

●東家愛楽君 君は浪界の名人なり。純粋の江戸児にして神田區山本町に生る、其呱々の聲を挙げたるは、明治十六年一月十五日なり。父は斎藤留吉氏、酒造業を営む、君は其長子なり、本名を齋藤力之助と云ふ、東家愛楽の芸名を以て著はる故に今之れに従ふ。 
 君、天性弁説に爽かなり、小学校を卒業する頃より、講談に趣味を感じ、二十一歳にして先代東家楽遊(當時悟樂斎三叟)の門に入り、孜々として其技を練り、忽ち惰輩を抜く、師充して独立業を営ましめんするも、君は猶未だ世に立つに足らずと為し、謙譲自ら居り、精励愈々努む、是に於てか、技大に進み、名声漸を以て著る、遂に師の許を得て家を建て、各席及劇場に上る、時に明治四十一年にして君齢二十有五なり、爾後、益々芸に励み、今や有数の真打格なり、夫人はハル子、一女あり。

 師匠は初代東家楽遊。小松嵐で売れた「二代目楽遊」や浪曲界のプリンスと謳われた東家楽燕は兄弟弟子にあたる。

 1904年入門――らしいが、『浪花節名鑑』では、

初代楽遊の門に入る十九歳横浜日吉亭を始め三年目東京市京橋東京亭今の恵寶亭に於て真打披露あげる

 と、また違うことが書かれている。

 しかし、1907年夏ころまで一枚看板では出てこないので、前者を信じるべきであろう。

 雲右衛門に走った楽燕や独自の節をこさえた楽遊と違い、古い関東節の味わいを残す芸を旨とした。芸題も広く、「越後伝吉」「伊達騒動」などのお家騒動物、「祐天吉松」「野狐三次」などの侠客物、ケレンでは「水戸黄門」などを師匠譲りの軽妙さで読んだ。

 妻は戸川小浅といい、愛楽のパートナーであり、かつ曲師でもあった。本名・渡辺はる。 年齢は愛楽よりも3つ上というから姉さん女房である。

 堅実で誠実な浪曲は、大劇場よりも寄席の芸として受けた。人気は相応にあったようだが、楽燕や楽遊と比べると些か地味な所があった。

 ただ、一部文献で書かれるような「全く人気がない」というわけではない。きちんとした人気と地盤はあった。良くも悪くも手堅い人物というべきだろう。

 浪曲界随一の人格者だったのは有名で、その人格者振りは謹厳で知られる関係者にさえ「堅い」とまで言わしめる程。弟子に入った相模太郎は『浪花節一代』の中で、

 然るべき師匠を世話して欲しいと頼んでみた。大和亭のオヤジの無類の堅人だが、『よおし、お前さんがその気なら、謹厳そのものの堅い人を』といって、取りもってくれたのが初代の東家愛楽さんで、つまり私の恩師になる方……

 先代愛楽という方は、余り人気はなかったが肚のできた器量人で、稼業に似合わないシッカリした見識をもっていた。

 と、褒めたたえている。厳格で知られた相模太郎が言うのだから相当の堅物だったのだろう。

 1926年7月19日、JOAKこと東京放送より『勝田新左エ門』を放送。

 1927年4月1、2日、JOCKこと名古屋放送より『紀伊国屋文左衛門』を放送。さらに3~5日まで『天一坊』を三夜連続放送をしている。

 1927年12月、ニッポノホンより「紀の國屋文左衛門」を吹き込み。トンボやラッキーレコードなどのマイナーレーベルから10枚ほど吹き込んでいる。日文研で聞く事が出来ます。

 1928年2月24日より30日まで一週間、浅草公園劇場で「三叟襲名披露公演」を実施。楽燕、小楽燕、楽鴈、三笑、左楽遊、楽遊、鶴燕等が出演。

 襲名披露はちょっとした話題となっていて、『読売新聞』(2月21日号)に、

三叟を襲名 浪曲関東派の元勲故三叟の名跡は今度東家愛楽が東家一門の楽燕、楽遊を始め雲月、重友、榮楽、虎丸等浪曲界各方面の諒解後援の下に二世三叟を襲名することゝなつた

 という記事が出ている。

 1929年10月8~12日、名古屋放送で『水戸黄門記』を披露。実に軽い節で語ったという。

 1930年3月6日~9日、名古屋放送から『伊達騒動』を連続口演。

 1930年10月、ポリドールより『越後伝吉』を吹き込み。これが最後の録音か。

 たしか私が丗一才の時だったと憶えているが、八丁堀の住吉でこの披露をやることになったその晩、師匠は突然亡くなりました。

 という。享年48歳というから若い。残された愛雀改め愛楽は師匠の未亡人・戸川小浅に引き取られ、厳しく仕込まれた。そのおかげでめきめきと頭角を示し、二代目愛楽としての看板を揚げた。

 後年、この愛楽がレコード吹込みに至って改名。それが相模太郎の誕生であった。

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