生き別れた妹を探して……木村重行

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生き別れた妹を探して……木村重行

 人 物

 木村きむら 重行しげゆき
 ・本 名 服部 為行
 ・生没年 1895年~1945年5月19日
 ・出身地 三重県 伊勢市

 来 歴

 木村重行は戦前活躍した浪曲師。ウレイと哀愁の帯びた関東節とメリハリのある啖呵を得意とし、寄席を中心に大きな人気を集めた。浪曲の代名詞である「ちょうど時間となりました~」という終わり方は、この重行が考案して演じたものだと伝えられる。

『大衆芸能資料集成』によると、生まれは伊勢だという。ただ、親の都合で早くから東京へ出てきた。

 父は横浜の外国人屋敷の支配人をしていた――と『読売新聞』(1928年3月1日号)にある。幼い頃、養子に行った妹・操と生き別れてしまったそうで、この妹の探索と再会は重行生涯の願いであったという。

 その顛末が、上の『読売新聞』にあるので引用しよう。

 此の重行クンの
 半生は涙の物語で綴られてゐる。彼が五歳の時、父は横浜の異人屋敷の支配人をしてゐたその頃、重行クンには操さんといふ唯一人の妹があつた。所が父は一家の事情から妹を仲のよい友達に養女としてくれたのであつた間もなく其の養父は情婦を拵えて妻と重行クンの妹を置き去りにして行方をくらました。養母は
 乳呑子である操さんを抱へて僅の手内職で細い煙を立ててゐたが、敢なく急死した。その後へ父の不実の友は情婦と共に横浜へ舞戻り、養女である操さんを満州へ芸者として売りとばした震災前、満州の貔子窩より一本の手紙が重行クンの許に届いた。それは重行クンが探してゐた妹が
 苦心して兄の居所を探し求めて漸く寄越した手紙であつた。その喜びも束の間、震災後その消息はハタと消え果た。丗餘年會はざる妹を尋ねんため芸人となつた重行クン、暫く苦労して一本立となつて第一の念願は妹の安否を確めると近い機会に満洲興行を企てやうとしてゐる

 いくら養子とはいえ、友人の子を平然と女郎屋に売り立ててしまう人はどんなものであろうか。

 なお、妹と再会できたのかは判然としない。

 重行自身も苦労をしたそうで、学校も卒業そこそこに奉公へ出されたらしいが、妹を探すには全国を旅ができる、そして自分も好きな浪花節で身を立てようと決意。

 13歳の時、当時売り出しの木村重松に入門。本名から「為松」と名付けられ、前座修業を行った。

 さらに「木村松葉」、師匠の倅が名乗った「重若丸」を経て、「木村重行」と名乗った。これを生涯の芸名としたのは言うまでもない。

 師匠の重松や敬愛する浪花亭綾太郎を混ぜ込んだ小粋で悲哀のある関東節を得意とし、寄席読みの名手として喝采を浴びた。

 節の終わりをわざとマイナーにして、如何にも悲哀のある節にしたのは重行の名案というべきだろう。

 師匠譲りの『慶安太平記』『国定忠治』なども読めたが、『花井お梅』『与三郎とお富』『唐人お吉』『高橋お伝』『爆裂お玉』『月の輪お熊』といった悪婦もの、『伊香保の夜嵐』『谷干城』『乃木将軍』などといった新物の方が面白みがあったという。

 また、師匠の関係で知り合った右翼の親玉で浪曲の良き理解者であった頭山満を崇拝し、『頭山満伝』と称した浪曲を演じるほどの崇拝ぶりであったという。頭山満から贈られた品を家宝として扱い、むしろ狂信に近いような状態であったらしい。

 悲哀のある読み口から、兎に角悲劇に生きる女や人物を描かせるとぴか一であった。一方で、重松譲りのズボラさや哀愁に頼りすぎるきらいがあり、芸者も女郎も花魁も皆、哀れな女になってしまうのが欠点であった。

 正岡容は『雲右衛門以後』の中で、

 この上の現役の寄席試では、綾太郎、浦鶴、友忠、松太郎、伯猿、樂浦、華柳丸、重行とかぞへるよりないでせう。女流の華千代は關西調ゆゑ、問題が別です。重行なんか、何年かぶりでこの間一寸きいたら重勝のわるい方を真似て中江兆民も、谷干城も、「てめえ、俺」ですが、永年、叩いてあるから、一種、チャチなりに古い家作りの「家」だと云ふ氣は、します。頭山満翁の傳記は、いけません。彼が第に心酔し切ってしまつてをり、たゞ只管に恐入ってゐて勝手な自由な演出が できないからです。翁の一家であるとか云ふ(恐らく創作にちかいものだらうが)頭山本馬の何席かゞ段違ひにおもしろい。此だの「四年七日」と云ふ横濱の探偵物など明治味如実で一ばんいいものだらう。小生の旧作「お吉」「花井お梅」なごは節は哀切だが、てんで人物がだせてみないで冷汗物に候。お梅など、本人が一流の芸者の生活など見たこともないのだから、場末の不見轉然たるのがあらはれて、どうにも恐れ入谷です。

 と、その芸風のいい所と悪い所を見事に批評して見せている。

 また、正岡は遂に重行がリーダーとなり得なかった背景には「誇大妄想の性癖が累をなしてよく中流以上の看板とならず、終戦直前、甲州の山村に疎開後病歿した木村重行である。」があったと『滝野川貧寒』の中に分析している。

 それでも悲哀のある芸と重松から仕込まれた啖呵のうまさはぴか一で、人気は大したものであったと聞く。

 ちなみに「ちょうど時間となりました~」という終わり方は、重行が考案したらしい。寄席読みらしく、盛り上がりの絶頂で「ちょうど時間と」とうまく切って見せ、観客の喝采を浴びたという。

 その巧みな切れ場に感動した仲間たちが、その言い回しをこぞって真似するようになり、一つの型になった――というのだからこれも功労者である。

 また重松や重友、友衛などの後押しもあったのか、ラジオ放送やレコード吹込みもよくこなした。

 1928年3月1日、JOAKより『谷干城と賢夫人』を放送。

 1929年7月8~11日、名古屋放送と熊本放送から中継で『谷干城』を四夜連続口演。

 1930年7月13日、名古屋放送より『いろは文庫』を放送。

 1930年10月、オデオンレコードより『(義士外傳) 烈婦お霜』を吹き込み。

 1930年11月、ニットーレコードより『月の輪お熊』を吹き込み。

 1930年12月、ヒコーキレコードより『利根の血烟』を吹き込み。

 1931年1月、オデオンレコードより『慶安太平記 (皿廻し)』を吹き込み。

 1931年4月1~3日、名古屋放送より三夜連続で『佐竹騒動』を放送。

 1931年5月、ヒコーキレコードより『花井お梅』を吹き込み。

 1931年8月17~19日、名古屋放送より『佐渡の高波噂侠客』を三夜連続口演。

 1931年11月、ニットーレコードより『寛永御前試合 (中條五郎兵衛)』を吹き込み。

 1932年3月1~4日、名古屋放送より『慶安太平記』を四夜連続放送。

 1932年3月、ニットーレコードより『爆弾三勇士』を吹き込み。

 1932年5月、太陽レコードより『唐人お吉』を吹き込み。

 1932年8月、テイチクレコードより『白井權八小紫』を吹き込み。

 1932年12月、太陽レコードより『伊香保の夜嵐』を吹き込み。

 1933年9月、太陽レコードより『神道徳次郎』を吹き込み。

 1933年12月、太陽レコードより『花井お梅 (後日物語)』を吹き込み。

 1934年1月、ビクターより『黒駒の勝蔵』を吹き込み。

 1934年4月、ビクターより『高橋お傳』を吹き込み。

 1934年9月、ビクターより『召集令』を吹き込み。

 1934年11月、ビクターより『お祭り佐七』を吹き込み。

 1937年5月、キングレコードより『新版唐人お吉』を吹き込み。

 この他にもマイナー盤や複写品がある。ほとんど日文研のサイトで聞けます。

 1937年1月12~17日、名古屋放送より懸賞台本『綿布金四郎』を六夜連続口演。

 1937年7月27日、JOAKより全国中継で『日露哀話』を放送。

 1938年3月19日、JOAKより全国中継で『烈婦お霜』を放送。

 1938年6月10日、JOAKより全国中継で『日露秘聞・明石将軍』を放送。

 1938年9月27日、JOAKより全国中継で『仏の山次郎左衛門』を放送。

 1939年9月13日、NHKより『乃木将軍と名校長』を放送。

 1940年11月24日、NHK下関より『大岡政談』を放送。

 戦時中は軍事慰問や巡業で活躍。美声はさえわたり、芸の油も乗り始めたが、そこに戦争が悪化したのは重行にとって不幸であったといえよう。

 1945年、度重なる空襲に恐れをなし、妻と共に疎開を決意。山梨県大月市に弟子の木村行春がいる事を幸いに、大月への疎開する事となった。

 当初はトラックに荷物を乗せて疎開する予定であったらしいが、物資難やらトラック不足やらの事情で遂にトラックは来なかったという。

 真面目な重行は、荷物をリヤカーに乗せて、尾久の家から大月に向かった。

 空襲や統制下におびえながらも荷物を運び終え、大月の行春の家にたどり着いた。そうした苦労や恐怖、そして安堵が重行の一撃となったのだろう。行春の家で倒れ、そのまま急逝してしまった。50歳だというのだから早い。

 その死から3カ月足らずで太平洋戦争は終結し、あれだけ恐れた空襲もなくなった。しかし、次に東京の地を踏んだ時には既にモノを言わぬ屍であった。

 戦後も大きな活躍を期待されていただけに、疎開直後の急死は多くの関係者に惜しまれた。ある意味では彼もまた戦争の被害者だったのかもしれない。

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