高学歴スポーツ選手の浪曲師・大浦一朗

浪曲ブラブラ

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高学歴スポーツ選手の浪曲師・大浦一朗

 人 物

 大浦おおうら 一朗いちろう
 ・本 名 ??
 ・生没年 1911年頃~1975年以降
 ・出身地 長崎県平戸市

 来 歴

 大浦一朗はスポーツ選手出身の浪曲師。全国大会出場経験もある程の人物であったが、後年浪曲師に転向。ユニフォーム姿で浪曲を唸るという独特の舞台で人気を集めたという。

 経歴は『都新聞』(1934年2月14日号)に詳しい。

 今度、この早慶戦が浪曲化された この大胆な試みをしたのは九州博多に在る二十三歳の年大浦一朗で嘗て神戸三中時代には野球選手として間に勇名を馳せたもの中途から浪曲家家を志願し、既成大家の門に入らず、勇敢にも独立の旗揚げをしたもので、これからの浪界は、例ののブラリブラリと急がるゝ風の陳腐なものやつてゐたのでは迚も駄目だと、敢然スポーツ浪曲を標榜して起つたで、九州劇場で初陣興行をやり、熊本、鹿児島、長崎と打って、近く大阪を経て東京入りするだとか

 経歴は『読売新聞』(1934年3月29日号)にも経歴が、詳しく出ている。

浪花節「孤島の俊寛」の放送者大浦一朗さんはお正月の寿々木米春に次ぐAK特選新顔放送者である大浦一朗さんは肥前平戸に生れ神戸三中に学んでスポーツ選手であつたが美声から浪花節に自信を持ち九州の一角から旗揚げした新進で九州の各放送局各劇場等に出演してゐる。今度日東レコード吹込みのため上京したのを機会にAKから初御目見えとなつたものであるが肝煎役が明治四十年ごろ早大出のインテリ浪曲家として人気を博した本田燕左衛門さんで、目下福岡で演芸新聞「藝一報」を発汗して、大浦さんの美声を後援し特に「孤島の俊寛」を書卸したものである

 平戸市の生まれ。神戸三中に進学、スポーツ選手として全国大会に出るほどであったが、夢絶たれた為に浪曲師へ転向。

 当時、九州で独自の活躍をしていた本多燕左衛門こと本多哲の弟子分のような形となり、浪曲の指導を受けた。本多がそもそもインテリ浪曲の出だけあってか、高学歴の大浦青年に相応しい芸や態度を教示したという。

 本多という大きな後ろ盾を得た大浦一朗は、自慢の美声と学歴を武器に「スポーツ浪曲」として九州から売り出した。

 一方、独特の経歴や風変わりな芸風もあってか、番付などでは基本的に「客員」という形で紹介されている。不憫と言えば不憫である。

 1933年10月2日、福岡放送に出て浪曲を口演。これが浪曲師として公に出た第一歩である。

 1934年2月、ニットーレコードより『初陣』を発売。

 1934年3月、ニットーレコードより『雪は血に咲く 高田の馬場』を発売。

 1934年3月29日、JOAKに出演し、『孤高の俊寛』を放送。師匠分の本多燕左衛門がわざわざ執筆をしてくれたという。

 また、この上京はレコード吹込みの為であったともいう。

 1934年9月、ニットーレコードより『神風連』を発売。

 1934年4月17日、福岡放送より『神風連』を放送。以来、東京よりも福岡・九州の活躍が多くなったという。こうした地方での活躍もまた、大浦の名前を忘れさせてしまう一因だった模様。

 1934年5月、ニットーレコードより『早慶決勝戦』を発売。大浦はこの早慶戦系のネタを演じる際、ユニフォームを着て、野球の形態模写まで演じたという。実に前衛的ではないか。

 1934年6月、ニットーレコードより『孤島の俊寛』を発売。上のラジオの新作をそのまま吹き込んだもの。

 1935年1月、ニットーレコードより『新訳義士伝(本懐成就)』を発売。

 1935年1月、浅草の音羽座に出演し、スポーツ浪曲を披露。喝采を浴びたという。『浪界新聞 』(昭和十年三月一日)に以下のような記事が掲載されている。

三五年はスポーツと浪曲が全盛その月と華を一つにまとめて人気の潮に乗らうとした大望か、茲に新春東京の浪界へスポーツ浪曲大浦一朗なる青年が飛び出した然も元旦興行を米若が打つた浅草の音技に、突如関東派の諸豪を前読みに座長で乗出して来んだから全く浪曲ファンの一驚異となった事は無理もない、実はこの青年九州の産でつい先達つてまで神戸三中のスポーツ万能選手、声がよくて浪曲が好き、そこで九州の浪曲探求早大出身の本多燕左衛門君の所へ身を寄せて、みつちりと八ケ間敷く叩き込まれた、これならばと云ので送り状を付て寄こした先が雲月支配人永田君の處だ、そして柄は小さいが其道の手腕は凡手でない永田君がいきなり本多君の推薦ならと大きく引受けて浅草の音羽座上演と云ふ運びになつたのだ、問題は『血涙の早慶戦』『スポーツの朝』『熱血の球豪』『起て日本』『隅田の凱歌』と続く所野球あり、拳闘あり、スキーあり、ボートあり、悉くスポーツ観戦を扱つたものであり廿一日の初日から大受けである、然もそのスポーツ服を身につけて凡ゆるモーションその儘の万能選手振には全く聴衆も手に汗握る対戦を眼の前にする思ひ、初日に特等席に姿を忍ばせて居た元勲初代吉田大和之丞まで『これは物になる』と折紙をつけたと云ふのだから試験は全くパスした様なもの、それ声量の豊富、雲月張りの節調、それで会話がガッチリして居るのだから現在すでに浪界の一惑星の位置は動かないものだ、筆者も一つ紙上からフレー/\と声援して置く――。

 1935年3月、ニットーレコードより『新訳義士伝(助命の謎)』を発売。

 1935年7月 、タイヘイレコードより『早慶野球戦』を発売。

 1936年2月、タイヘイレコードより『冬木二等兵』を発売。

 1936年9月16日、JOBKより『誉れの決死隊』を放送。

 1939年春、「スポーツ浪曲」と銘打って台湾巡演した模様が、『植民地台湾の日本女性生活史 昭和篇』に出ている。

 1941年9月、「文芸浪曲」と銘打ってテイチクレコードから『軍事浪曲 噫!肉弾』を発売。

 戦後には第一線に出て来なくなる。廃業した模様である。

 ただし浪曲界との関与はあったらしく、1975年の『浪曲事典』の浪曲師アンケートに「大浦一郎 佐賀県在住」として答えている。

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