ドンドン節の三河家円車(初代)

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ドンドン節の三河家円車(初代)

 人 物

 三河家みかわや 円車えんしゃ
 ・本 名 棚瀬 清太郎 
 ・生没年 1876年11月10日~1933年以前
 ・出身地 三重県 津市

 来 歴

 浪花節黎明期に活躍した浪曲師。本業以上に、余興で始めた「ドンドン節」なる独特の節が大当たりし、演歌や俗曲で取り上げられるほどの人気を博した。今日も日本の歌謡曲史では必ずと言っていい程に出て来るヒットソングである。

 長らくドンドン節の創設者以外、これという評価もなされず、経歴も不明として処理されてきたようであるが、明治時代の人気は大したものであったそうな。

 生年は、1915年発行の『芸人名簿』から割り出した。ただ、明治10年と言っている資料も有り、困る。

 円車自身が経歴を語ったものが、『国民新聞』(1907年3月21日号)に出ている。少し長いが引用しよう。

私は明治十年伊勢国津市に生れ父は建具職でございましたが、故あって私は九歳の折ある桶屋の養子に遣られました。養父は至って気立の優しい人でしたが連子のある後妻を引込んでから兎角家内に風波が絶えませんので、私も居辛くてなりませんから十四歳の年に養家を出て尾州熱田へ参り或る時は八百屋の小僧となり或る時は桶屋の職人となり又或る時は土方の居候となって千辛万苦をなめ尽くしました。其頃琵琶島の川島屋に三河家梅車が出演し十八番の「鬼神のお松」を読んで居りましたのを或晩主人に連れられて聞きましてから急に浮かれ節になりたくなり、二十一歳の春、漸く伝手を求めて梅車の門に入りました。これが私の浪花節になった原起です。

 その後、一座にいた都福丸という曲師の娘、絲吉と親しくなり、婿養子に入った。福丸は隠居して、絲吉と二人、地方回りの浮かれ節になったが、絲吉の三味線ばかり評価されて、稼ぎはいつまでも絲吉の方が上で有った。

 これを嫌がった福丸は「亭主のお前が半分しか稼げないとはなんと腕甲斐なしだ」などと連日円車を罵倒し、いびり倒した。

 これに憤慨した円車は妻を置いて矢矧へ行き、兄弟子の三河家真車の下で修業をする事となったが、見切りをつけてここも放逐。

 蒲郡で放浪している際に梅車と再会し、再び一座へ戻って横浜へ出た。当地ではなかなかの人気を得たが、その一座に戻ってきたのが真車。真車は円車を見るたび「俺に恥をかかせやがって太い野郎だ」と外に引きずり出して散々折檻し、全治一か月のケガを負わせたという。

 しかし、円車は「これは自分が悪い」と真車の罵倒と暴力を素直に受け止めるばかりであった。

 横浜を出て、神田の市場亭へ出演。これが東京初進出であった。その後、梅車から「大阪へ行くからついてきてくれ」と命じられるが、一人前の浪花節語りになりたいと思っていた円車はこれを拒絶。

 円車の拒絶を知った梅車は、履いていた下駄で円車をぶん殴ると「お前のような奴が真打になれたら東京市内を逆立ちで歩いてやる」と罵倒した。

 兄弟子はおろか、師匠にまで罵倒された円車は一念発起。青木勝次郎(玉川一門の流祖)、京山若丸などと「浪花節奨励会」を結成し、芸道に励んだ。名人上手から芸を学び取り、見る見るうちに頭角を現して、25歳の時に真打に昇進した。

 後年、師匠の梅車にあった際、「俺が悪かった」と詫びを入れられたという。ここで和解し、再び三河家の看板として活躍するようになる。

 1906年10月25日、都新聞で行われた人気投票「演芸三傑」に選出され、第16位。これだけ見ると微妙であるが、初代玉川勝太郎や浪花亭峰吉、一心亭辰雄より上で有った事を考えるとすごい。

 1907年3月、国民新聞で行われた「私の好きな芸人」で浪曲師のベストテンに選出されている。この頃が絶頂期であったのだろう。

 1907年5月、雲右衛門の上京のうわさを聞いて激怒。「雲右衛門は師匠梅車の妻を寝取った大悪人、不貞の輩」とネガティブキャンペーンをはじめ、「雲右衛門には一切協力しない事」という回覧を出したほど。

 かつて雲右衛門は梅車の一座を飛び出した直後、この円車の策略で東京を締め出され、九州落ちまでしたが、もうこの頃には円車の敵ではなかった。

 7月、雲右衛門は本郷座に出演。前座は全て自分の弟子から回し、有栖川宮家から拝領した和歌をあげて、看板にする――ハッタリとも大演説とも見える広告に帝都の客は驚き、本郷座へ押し寄せた。特等席から三等席まで売り切れ、立錐の地ない程であったというのだから、円車は苦々しく思った事であろう。

「こけおどし」などと言われながらも、雲右衛門は大成功をおさめ、一躍時の人となった。円車は峰吉などと手を組みながら、ネガティブキャンペーンを煽り続けたが、衆寡敵せず。新聞・メディアは雲右衛門一色となり、円車は人気や芸に嫉妬をする浪曲師という形で片づけられてしまった。

 こうした鬱憤や苛立ちが、ドンドン節という奇天烈な芸を生み出すキッカケとなったという。正統的な浪花節への意趣返し的な意味もあったのかもしれない。

 浪花節を一通り唸っては、その切れ場に「ドンドン」と前座に太鼓を叩かせた。この異色の浪花節に観客は驚くと同時に、太鼓とあった見事な節まわしに喝采を浴びせたという。

 その一例は日文研のアーカイブから聞くことができる。2枚目の冒頭(30秒くらい)で「沖でカモメというけれど、ここに飛びくりゃ、鳥の名前もじきに変わって、ミヤコォドリィ、ドンドン」と言っているのがそれである。

 そうした意外な浪花節は、また別の意味で人気を集めたそうで、再び人気を盛り返す事に成功した。幼い頃から浪花節を聞いて育った新内の岡本文弥は『ぶんや随筆』の中で、

三河家円車のドンドンぶしが人気の絶頂で、その花岩亭では客席が一ぱいで、楽屋まで客を詰め、私はその楽屋の混雑の中で円車の背中を見ながらきいたことを覚えている。
本所の花岩亭にドンドンぶし三河家円車の独演会があり、すこし遅れて行ったら客席はモウ一ぱいで楽屋へ詰め込まれる。その楽屋も身動きできぬ程一ぱいでみんな演者の背中を見ながら聴いていた。

 と凄まじい客を入れたことを回顧している。もっとも、当時の好事家からは否定的にみられる節もあったそうで、『天鼓』(1906年2月号)の浪花節批評の中で、

 と揶揄されている。しかし客を入れたのは事実なのであろう。

▲三河家円車 水は時々濁るかなれど誰がつけたか隅ィ田川、ドン/\。これで売だして何処へ出ても大人気也、但し三日目まで。四日と続けて開く可らず。

 いつしかこのドンドンという浪曲の演出は、大衆に知られる所となり、節まわしを真似るものまで現れた。

 この評判を知った演歌師たちは、円車の節や太鼓の音を取り入れた「ドンドン節」なる曲を作曲。以下はその例である。

駕籠で行くのはお軽じゃないか 私しゃ売られて行くわいな 父さんご無事で また母さんも 勘平さんも折々は 便りを聞いたり聞かせたり ドンドン

 更に人気演歌師の後藤紫雲がそれに手を加え、演歌の大御所・添田唖蝉坊と共作という形で「新ドンドン節」を発表。これも爆発的なヒットを遂げている。

 大正初期頃まで、浪曲の第一線の名人として活躍していたが、1917年に雲右衛門が死んだ後は、人気も衰えがちになり、関東大震災以降は浪曲大会のメンバーからも外れ、小さな寄席でトリを取る程度の活躍に留まった。

 老年になると、長年愛好した酒や不規則な生活がたたって、高座もままならぬ程になってしまったという。最終的にはドサ周り同然にまで落ちぶれ、周りの同情でなんとか舞台に立っていたという。

 『浪曲ファン』(71号 1978年7月20日号)の三谷松男『あの声あの姿』の中に、

三河家圓車 円車の黄金時代は、私など生れていない頃でしょう。私の祖父が浪曲が好きで「円車円車」と云って居ました。その円車が最後の地となった飛騨の船津町で、その最後の口演を私が聴いたとは……もうその時の円車は、舞台へ上るのもやっとで、声も小声で何を云ったのかわからぬうちに降りてしまいました。一座には原某とか、東家某と云う浪曲が居て、円車のことを「昔は八丁荒しと云はれたドンドン節の元祖、三河屋円車師も、酒毒の為、今は声も余り出ませんが、どうか花を持たせてやって戴き度い」との口上に、客は大酒で身を持ち崩した哀れな人間の末路を見る思いで聴いて居ました。

 とある。三谷氏が1926、7年頃より浪曲を見始めたことを考えると、昭和に改元した辺りまでは生きていたのであろう。

 ただ、三谷氏の記憶通り、酒害や老齢で既に全盛期の面影はなく、僅かなネームバリューと引き立てで食っていたというのだから悲惨な話ではないか。

 なお、一部文献では春日清鶴の弟子だった男が三河家梅車門下になって、このドンドン節の円車になったというガバガバな系図を書いていることがあるのだが、大嘘である。何を見てこんな系図を書いたのだろう。

 ただ、春日清鶴の門下、小清鶴が跡を継いだのは事実で、これが元で小清鶴は春日一門を破門されている。それでも林伯猿が間に入って、円車を引き取り、1943年に和解させた――と、当時の都新聞にある。

 また、1933年頃に弟子の小円車が二代目を次いでいるので、それ以前には没していたのは確実であろう。

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