雲右衛門との確執・三河家梅車(初代)

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雲右衛門との確執・三河家梅車(初代)

 人 物

 三河家みかわや 梅車ばいしゃ(初代)
 ・本 名 中村 梅吉
 ・生没年 幕末~1907年
 ・出身地 愛知県?

 来 歴

 三河家梅車は浪花節黎明期に活躍した浪曲師。浮かれ節から万歳・盆踊り・説教・祭文などのいい所を取った明るい節廻しと話術でメキメキと頭角を現し、「三河家一門」を創設し、中京の大看板として君臨したが、最晩年は胸を病み、さらに雲右衛門との確執で不遇のまま死んでいった。

 経歴は謎が多いが、本名は官報の中に出ていた。『官報』(1884年10月09日号)の中に――

第百五拾九号 一遊芸稼人但軍談浮世節 西山梨郡江府太田町尾菊岡芳次郎方寄留 愛知県下三河国領明大寺平民 中村梅吉事三河屋梅車

 とある。この事から本名が中村梅吉ということが判明した。生年などは不明であるが、既にこの頃から一枚看板でやっていた事を考えると幕末の生まれではないだろうか。

 なお、この官報発行時には「今年の8月、知人に荷物を持ち逃げされ、その中に鑑札が入っているので見つけたら連絡が欲しいと届け出があった」という告知が記されている。

 なお、翌年には鑑札不携帯で巡業に出掛け、滅茶苦茶怒られたそうである。

 師匠筋は不明であるが、『新仏教』(1906年9月1日号)の浪花節の紹介では、浮かれ節の名人だった吉川辰丸の弟子だった――という紹介がなされている。

 ▲三河屋円車君、此君は、三河屋梅車君(後に三河屋一といふ)の弟子で、その三河屋梅車君は、初代辰丸君の弟子である。

  浪曲そのものは古風な軍記や侠客ネタ、悪女悪党のネタを得意としたようであるが、本来の浮かれ節の芸には満足せず、三河万歳、祭文、説教、盆踊り、絵解き――など愛知県下に往来していた旅の芸の音楽を巧みに織り込んだ賑やかで明るい節と語り口を構築し、目覚ましい人気を集めたという。

 実際、弟子の三河家円車は梅車の「鬼神のお松」の一席を聞いて感動し、弟子入りを志した――という程である。

 須田好という人が『銀川集第三巻』の中で梅車の芸や美声を絶賛している。曰く――

 其後○○町の某座で、今は故人になった三河屋一(故雲右衛門の師匠)を聞いた。此の人は前に梅車と云った。一時泥棒梅車と云へば八丁荒しの評判を取った程、泥棒読みの名人で、六十前後ではあったが、声量も豊富で、極めて美声であった。節にも何とも云へない粋な処があった。『胸の辺りで矢蔵をきめて、紺の股引、つつかけ草履に身を乗せて……』なんていふ処は、迚もふるい付きたいやうな、節廻しだつた。

 主に東海以西を根城にし、名古屋界隈では一枚看板の大御所と知られていた。

 1897年、三河家円車が入門している。

 この頃、桃中軒雲右衛門も春日井松月の伝手で梅車の一座に参加。

 雲右衛門の芸を目にかけ、何かと可愛がっていたが、雲右衛門は事もあろうか梅車の妻のお浜とデキてしまった。そうした関係から、梅車は妻のお浜を桃中軒雲右衛門に寝取られたという可哀想なポジションで登場する。

 結局、二人は手と手を取り合って一座を抜け、九州に落ち延びる――という筋は、雲右衛門の野心や狂気の象徴として様々な小説や映画で取り入れられている。

 一方、梅車に非がなかったかといわれると困る所で、雲右衛門生前から「梅車は妻のお浜に暴力暴言を行っており、その妻を妻とも思わぬ粗暴な扱いを受けるお浜を慰めている内に、お浜に惚れられた」という伝説が生まれた程であった。

 演芸記者として多くの芸人や関係者と付き合いのあった平山芦江は『苦楽』(1947年10月号)の『雲右衛門哀史』の中で――

大事な女房は小繁にとられすい自分の高座は痼疾の肺病のためにだん/\人気が落ちる一の苦悩は小繁の芸が光り輝やくのに正比例して深まって行った。 
 もめてもめてもめぬいた挙句、一は到頭神田市場亭の主人奥野仙吉親分に女房への意見をたのみ込ん だ。 
 神田美土代町の市場亭を神市といひ(後に入道館と改称した)、神楽坂演芸場になった市場亭を山の手市場即ち山市といつて、この二箇所は明治末期の浪花ぶしの大殿堂と立てられて居り、殊に神市の方はてんじんといふ仇名を持った男まさりの内儀が内外を切ってまはしたことで、芸人仲間の利けものであった。 
 一夫婦は神市の土蔵の二階によびこまれた、お前さんほどの女が一体どうしたといふのだと仙吉親分はまづ口を切った。その時お浜さんは座敷のすみにおいてあった燭台に目をつけた。 
 燭台はこれから高座へ持出すために新規の蝋燭を立てたのと高座から引いて来たもえ残りの蝋燭を立てたのと二組があった。黙って二台の燭台をひきよせたお浜さんは、それを仙吉の前にならべ、旦那どっちも燭台ですが、これをとれと云ったらどっちになさいますかと云った。 
 一の目がぎろりと光った、一方はもえのこりで一方はこれから光るといふ蝋燭で――とお浜さんが云ひかけた横面へ、一の拳骨がさつととぶ、間髪を容れず、お浜は横つとびにとんで土蔵の梯子をころがり落ちるはづみに叩き破られた硝子のかけらで血を浴びたままお浜は一散に横浜へ走った。

 と、お浜の勝気な性格と共に梅車の暴力のひどさを記している。自分から意見を求めておきながら、すぐさま殴るとはひどい。

 また、浪曲研究者の芝清之も『浪曲人物史』の中で――

「大変な酒好きで、と云うよりも酒乱に近く、恋女房のお浜が、少しでも帰りが遅れると家の中から錠をかけ、無理やりに入ると、足蹴にして戸外へ叩き出す乱暴ぶりだったとか。髪をつかんで座敷中を引きずり廻し、追いかけ廻したこともしばしばだった」

 とその粗暴な性格を触れている。

 他にも自分と三味線が合わないとお浜を血まみれになるまで暴力を振るう、楽屋で苛立つとお浜や弟子を殴り倒し、酒を浴びるように飲む、弟子の円車が自分の命令に乗らなかったのに腹を立て、下駄で相手を殴りつけ「お前なんざ一生出世できない、出世できたら逆立ちで街を歩いてやる」と罵倒した――などと暴力伝説は数多くある。

 梅車が暴力を振るっていたのは事実のようで、この暴力への報復がお浜と雲右衛門の駆け落ち、と書く資料も大井。芸は旨くとも人間的な問題(特に妻に対して)はあったのだろう。

 1899年頃、弟子のひとりに「梅車」を禅譲し、自らは「三河家一」と改名。その後も舞台に出ていたが、最期は肺病で苦しみ、雲右衛門への恨みつらみを残しながら死んでいったという。

 墓は弟子たちが金を集めて、回向院に「三河家一之墓」として建立した。

 弟子の円車をはじめ、友人だった辰燕、伊藤痴遊は梅車の無念を受け継ぎ、雲右衛門が上京する際に「雲右衛門は旧師の妻を寝取り、師匠を見殺しにした不徳の輩」と宣伝し、雲右衛門を持ち上げる新聞社には脅迫状を送る騒ぎであった――という。

 しかし、多勢に無勢、雲右衛門の人気を前に彼らの脅迫は届く事なく、雲右衛門は浪曲中興の祖の名声をほしいままにし、梅車は今なお「雲右衛門に見限られた男」として哀しい評価のまま至る。

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