伴奏入り浪曲の東家鶴燕

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伴奏入り浪曲の東家鶴燕

 人 物

 東家あずまや 鶴燕かくえん
 ・本 名 寺本 音次郎
 ・生没年 1903年~1939年頃
 ・出身地 京都 伏見

 来 歴

 東家小楽燕門下の浪曲師。『東西浪界写真名鑑』に経歴が出ていた。曰く、

 本 名 寺本音次郎 
 生年月日 明治三十六年 
 出生地 京都市伏見区深草町師団前 
 師匠 東家小楽燕 
 初入門年月 大正九年十一月

 23歳の時に東家小楽燕の弟子になり、「鶴燕」と名乗る。真打ちになって名古屋で長らく修行をしていたが、昭和に入り帰京。

 小楽燕と楽燕の引き立てを受けて、寄席に出るようになった。関東節も関西節もいけるという芸達者であった。若くしてリーダーとなり、若手の勉強会「若睦會」の会長に就任。

 1925年11月27日、『雷電為右衛門』を放送。

 1927年4月、ツルレコードより『赤垣源藏徳利別れ』を発売。

 1927年12月27日、『安中草三』を放送。

 この頃から、洋楽伴奏やジンタを入れた、さながら映画説明のような浪花節を開拓したという。

 その一例として1928年6月7日に、『音楽入り浪花節 尾形陣之助』を放送している。立ち回りのシーンで和洋楽で囃し立てる派手な演出だったという。

 1929年11月、オリエントレコードより『(鳴物入浪花節) 島原劍俠録』を発売。

 1930年頃、パーロホンより『雪崩の岩松 (天保水滸傳)』を発売。

 1930年8月5日、名古屋放送から『雷電為右衛門』を放送。

 1931年3月20日、東京放送より『網の誉れ』を放送。

 1931年9月、タイヘイより『譽れの網』を発売。

 1931年9月6日、「中堅浪花節大会」に出演し、『平手造酒』を放送。

 共演者は、妻川歌燕『谷風の情け相撲』、筑波雲『曽我物語』、浪華軒〆友『佐渡の高浪』、玉川太郎『金比羅利生』、天光軒満月『常陸丸』

 1932年2月16日、『雷電と小野川』を放送。

 1932年5月、ポリドールより『孝子音吉 網の誉れ』を発売。

 1933年6月15日、『夕立勘五郎』を放送。

 1933年9月、太陽レコードより『有馬騒動 雷電と小野川』を発売。

 1934年頃、浅草で行われた『人氣者捜し』の人気者として選出されている。その様子は川端康成『浅草祭』の九に詳しい。

この女優の主要飲食店早廻り競争が六月二十五日、二十七日は人氣者捜し、選ばれた人氣者は、榎本健一、二村定一、古川緑波、大辻司郎、渡邊篤、横尾泥海男、生駒雷遊、熊岡天堂、西村小樂天、東家鶴燕の十人だが、天堂と小樂天とが活辯、鶴燕が浪花節語りのほかは、前身はなんであらうと今はみんなレヴュウ役者だ

 あくまでも小説の事なので、信憑性は微妙であるが、しかし浅草をよく知る川端の口からこのような人物と並び称されるだけ人気はあったのだろう。

 1935年12月15日、『大石と小太夫』を放送。

 この頃、東家楽燕によって創設された日本浪曲学校に招聘され、講師に就任。林伯猿と共に受講者の指導・実演に当った。

 1937年5月31日、『水戸黄門記 松に雁』を放送。

 1938年2月28日、『孝子音吉 網の誉れ』を放送。

 1939年ころに急逝。『東西大浪曲名鑑』の鶴乃一声の項目に、

昭和10年8月、16歳の年に思い切って上京、東家小楽燕門下の初代東家鶴燕の門を叩いた。(中略)3年の年季が開けると共に師鶴燕が他界して……

 とあるのが確認できる。この頃なくなったのは間違いないだろう。

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