風呂屋の浪曲師・岡本梅寿軒(初代)

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風呂屋の浪曲師・岡本梅寿軒(初代)

 人 物

 岡本おかもと 梅寿軒ばいじゅけん(初代)
 ・本 名 小松 梅吉
 ・生没年 1878年10月15日~1915年
 ・出身地 大阪市

 来 歴

 岡本梅寿軒は戦前活躍した浪曲師。一時は飛ぶ鳥を落とす勢いの人気を集めたというが、晩年は悲惨であったと聞く。

 経歴は『浪花節名鑑』に詳しい。

 師は明治十一年十月十五日大阪市西區梅本松小松平八の長男に生れ家は常盤湯と浪花節定席常盤席とを開業し数萬の富を有し居りしが幼少の頃より遊藝を好み學校に通ふ傍ら熱心稽古屋に通ひ毎日毎晩暇さへあれば「硯引よせ」とかなんとかやつて居たが明治三十年常盤席にて故岡本鶴吉や現今大阪親友派組合取締岡本鶴治が出席し居り其藝風を聞き感ずる處ありて鶴吉の門以下略す

 実家が風呂屋だった関係から、後年の戸籍調べでは「常盤湯主人」と書かれたりする。

 実家の関係で浪花節に凝るようになり、1897年に岡本鶴吉に入門。「梅丸」と名乗る。

 一本立ちして間もなく、東京での勉強を望み、上京。しかし、誰にも相手してもらえず、辛酸をなめつくした。その時に数少なく手を差し伸べてくれたのが末廣亭喜代風であったという。

 5年ほど東京で勉強し、6年目に東海道沿いを巡業しながら帰阪。帰阪後、「帰阪記念大会」を実施するも客が集まらず、これまた辛酸をなめた。

 1904年頃、自らの芸の限界を悟った梅丸は弟子に梅丸の名前を譲り、「梅寿軒」と改名。そのまま九州へ下り、芸を磨いた。

 九州から帰ってきたのちは大看板としてメキメキと頭角を現し、大阪を代表する浪曲師となった。

 当時としては珍しい新物読みだったらしく、『乃木将軍』、『西郷南洲』、『海賊島』、『なさぬ仲』、『血染めのカバン』、『軍国美談』などといったものを読んだ。もっとも古典もやっていたらしく、唯一残っているレコードは『堀部安兵衛婿入り』である。

 1909年4月1日より大阪角座において、「浪花節軍講談」と題し、美當一調と二人会を行っている。

 明治末にかけての勢力はすごく、親友派を飛び出して反対派をつくり、その幹部になったくらいである。角座に客を入れたというのだから人気はあったのだろう。

 しかし、大正に入る頃には病気や事情で、人気が衰えた。晩年は悲惨だったらしく、1913年6月に発行された『講談倶楽部 浪花節十八番』を読んだ正岡容は、

もはや老齢の悲惨さを見せているものとして、西に岡本梅壽軒、東に先々代虎丸(鶴堂)を生きながら弔っている。

 とまで書いている。どんなことが書かれているのか気になる。

 梅中軒鶯童によると、大正4年に亡くなったという。

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