真山一門の流祖・華井新

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真山一門の流祖・華井新

 人 物

 華井はない しん
 ・本 名 鶴政次郎
 ・生没年 1907年~1959年2月12日
 ・出身地 熊本県

 来 歴

 華井新は戦前戦後活躍した浪曲師。元々は剣劇の役者であったが、30歳という高齢で浪曲師となり、一家を築き上げた。弟子に真山一郎がおり、今日の真山一門の源流となっている。

 芝清之『浪曲人物史』によると、幼い頃から浪曲が好きで、10代前半で、当時九州全域で凄まじい人気を博していた天中軒雲月に入門を乞う。入門こそ許されたが親に一部始終がバレ、無理やり実家に連れ戻された。

 その後、実家にしばらくいたが今度は剣劇俳優を夢見るようになり、家出。今度は家族が追いかけてくるような事はなく、無事に剣劇一座に入り込んだ。

「荒木正雄」と名乗り、剣劇俳優として舞台に出ていたが、浪曲の味が忘れられず、舞台で剣劇の傍ら浪曲を唸っていたという。

 長らく地方巡業の花形として活躍を続けていたが、20代後半の折、当時不二洋子を連れて全国を回っていた迫日出雄に出会い、浪曲師になることを進められる。迫は元々桃中軒雲若といった浪曲師で、雲右衛門以来の浪曲をよく知る人物であった。

『浪曲人物史』によると、「父帰る」を節劇でやった際、浪曲を担当したのが荒木であった。荒木の唸る満月張りの節調に迫は舌を巻き、「君は浪曲師になった方がいい」と太鼓判を押したという。

 浪曲界ともつながりのある迫の勧めで1937年12月1日年浪曲界入り。当時、文芸浪曲で人気を博していた京山華千代に入門する。

 30歳で入門という異例の遅さであったが師匠の節と満月節を加味した独特の節、芝居で鍛え上げた描写の巧さでめきめきと頭角を現し、1年半で独立。

 1939年6月11日、東京九段会館で「華井新」襲名披露を実施。師匠の華千代を中心に大幹部が並んだ。

 師匠譲りの文芸浪曲を売り物に、「文芸浪曲・華井新」として全国を飛び回った。師匠が東京の寄席と懇意だった関係から東宝笑和会などにも列席し、東京のインテリファンを贔屓に付けている。

 1945年8月、軍事慰問のために広島市内を回り、6日早朝帰宅しようと広島駅で電車を待っていた所で、原爆投下に遭遇。爆風で吹き飛ばされたが爆心地よりも少し距離があったおかげか、命拾いをしている。

 命からがら広島を脱出し、帰宅を果たしたが、この時放射能を浴びてしまい、原爆症の症状が少しずつ出るようになる。即死する程の放射能ではなかったが、これが原因で夭折したという話もある。

 敗戦後は熊本に戻り、九州巡業で稼いでいた。

 1947年6月、九州巡業中に西本恭男が入門。これがのちの真山一郎である。新は彼に「華井新十郎」と名付け、二枚看板で渡り歩いた。

 ただし、後年新十郎が「歌謡曲をやりたい」といったために対立し、一時期破門したことがあった。

 1950年番付では「独流」として一枚看板が与えられている。

 1951年5月14日、福岡随一の親分と謳われた「塩田鉄五郎20周忌追善浪曲大会」に弟子の新十郎と出演。この塩田の死と浪曲大会の顛末は、火野葦平『白昼の市外戦』に詳しい(しかし、小説中では昭和12年に死んだこととなっている)。

 塩田鉄五郎を偲ぶ二十周忌の追善興行は、着々と準備がすすめられた。私はなんの手つだうこともなくすごしていたが、或る日、浪花節の切符三枚といつしよに届けられた案内状を見てびっくりした。
「拝啓新緑の候御高堂益々御清祥之段大変至極に存じます。陳者今般先輩友人諸賢の御奨めに依りまして、故人塩田鉄五郎の追善興行を
 文芸大浪曲 華井 新
 革命大浪曲 華井新十郎
 一行を招き開催致す事となりましたので、皆様方の格別なる御厚情と御後援賜ります様、何卒宜しく御願い申上げます。尚、読経は会場にて、午前十一時より致します。敬白」
 この挨拶の次に、主催者として、古場正一の名があるが、その後にならんだ名前は私を驚倒させる。つなげば優に二十尺くらいになる九枚の紙に、名前がずらりと印刷してあるが、それはほとんど北九州地方で知られた顔役、親分、ボスばかりだ。これだけの人間が、兇悪な遊侠であった塩田鉄五郎の追善に参加することは、壮観であるとともに、古場正一の努力がどんなに大変であったかを想像させる。しかも、その顔ぶれを見ると、嘗て、市街戦で刃をまじえた敵味方が仲よく隣りあっているし、宿敵矢頭高治は、後見人になつている。塩田の友人代表の中には、矢頭市郎の名もある。差添人三名、後見 人三名、相談役五名が、トップにならんでいるが、差添人に岡部亭蔵の息子岡部丘雄の名があるのは当然であろう。相談役の筆頭が、嘗て、市街戦の後、塩田が頼って行 った熊本の井木治平であることも、異議のないところ。 しかし、その相談役の中に、私の名があるのはすこしくすぐったかつた。古場正一は、今度の供養には、昔のすべてのイザゴザは水に流してといったが、私は無論なにももう塩田鉄五郎にこだわりを持つていない。左翼劇場公演をぶつつぶされたことも、塩田個人の意志でなかったと知れば、かえつて教訓的で、カンカン帽を鳴らしながら、吃り吃り、私たちを脅迫した塩田親分を、かえつて、微笑をもつてなつかしく思いだすくらいだが、ただ、若松という土地の根強い封建性、どんなにしても抜けない前近代性、そして、それが亡霊のように、やはり私のどこかにこびりついて離れないことに恐しさを感じるのだつた。こういう追善興行は一つの習慣になつている。呉越同舟は儀礼であるかも知れない。しかし、 この長たらしい名簿を見た瞬間、なぜか、ふつと、 正一が傷いた塩田親分を背負って、乱戦の中を抜けて行つた姿が、頭に浮かんだ。見ていたわけではないのに、奇妙なほどその姿がはつきりと私の眼に見えたのである。 私はすぐに花屋に電話をかけて、公会堂に花環をとどけるように手配した。

 今日なら大問題であるが、少し前まで芸能界はこういう界隈と繋がっており、それを誇りとさえしていた事もあるので、今となっては評価が難しい。

 1951年の番付では「新横綱」という微妙な評価。

 1953年の番付では「横綱候補」に就任。

 戦後は放送に巡業に活躍し、華井新十郎の出世を望んでいたが、原爆症や弟子の離反に苦しんだ。

 それでも最後まで浪曲に情熱を燃やし、舞台に出続けた。

 最晩年は病気に倒れ、51歳の若さで夭折した。広沢瓢右衛門によると、肺を壊したが新興宗教にハマったせいで治療をせずに死んだという。『浪曲展望8号』(1978年9月号)に、

その中に後に一寸人気のあった華井新もいた、剣劇役者から浪曲入して華千代君の弟子になり親分の関係でろ山さんから夕立勘五郎なぞ教えて貰って大阪に帰って来た時は中々売れたがすくま肺を病んで倒れ医者にかゝらず妙な新興宗教にこりかたまって一年程で死んだ

 残った新十郎は師匠の跡を受け継ぎ、独自の文芸浪曲を手掛けた。

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