事故死を遂げた名人・末廣友若

浪曲ブラブラ

[random_button label=”他の「ハナシ」を探す” size=”l” color=”indigo”]

事故死を遂げた名人・末廣友若

 人 物

 ・本 名 伊東 秀雄
 ・生没年 1906年6月26日~1945年8月24日
 ・出身地 栃木県安蘇郡植野村

 来 歴

 末廣友若は戦前活躍した浪曲師。東家楽燕の門下からスタートしながらも師匠とはまるで違う関東節を使いこなし、独立。粋で礼儀の正しい芸で人気を集め、一躍売れっ子になった。これから浪曲界を支えるという時に鉄道事故に遭遇し、夭折を遂げた。

 誕生日は「陸恤庶發第六一一號 船舶便乗ニ關スル件申請」(昭和十七年八月十七日)より割り出した。「本名 伊藤秀雄 明治三九年六月二六日生 本籍地 栃木縣安蘇郡植野村字植野二三三三」とあり、戸籍を提出したはずだが、墓の享年は42歳なのでつじつまが合わない。

 芝清之『浪曲人物史』によると、小学校卒業後、染色業(家業)を手伝っていたが、浪曲師になるべく十九歳のときに家を飛び出して、上京。

 友若は母親と生き別れ、「親無し」といじめられながら育った――と『浪曲ファン58号』で吉野夫二郎が書いている。生みの母親は埼玉県の資産家と再婚し、後年再会するがわだかまりが残った。

 当時、飛ぶ鳥を落とす勢いであった東家楽燕の門を叩き、入門を許されるが「自分の所は門下が多すぎるから芸は東家愛楽に教わりなさい」と、初代愛楽に預けられた。

 師匠の一文字をもらって「東家燕之丞」と名乗り前座修業。転がり込んだ先の愛楽が関東節の名手だった事から、楽燕門下であるにもかかわらず関東節を得意に演じるようになった。

 数年ばかり愛楽の下で働いていたが、一本立ちをする前に愛楽家を飛び出し、名古屋で武者修行に励む事となった。縁もゆかりもない名古屋の地で猛烈に勉強し、芸題を磨き上げた。

 芸どころとして知られた名古屋は東西の浪曲家が集まる聖地として知られ、友若は多くの小屋で前座を勤めて芸を学んだ。そのため、侠客物、お家騒動、冒険物、悲劇、滑稽物、新作に至るまでなんでも読みこなせる器用な逸材となった。

「義士伝」「祐天吉松」「忠治股旅日記」「越後伝吉」「天保六花撰」などを器用に読みこなした。

 そんな彼の芸を見込んだのが当時名古屋で席亭をしていた港家扇蝶で、彼を持ち席に付けて懸命に芸を磨かせたという。

 1929年9月1日~4日、燕之丞の名義で名古屋放送に出演し、四日連続「越後伝吉」を口演。

 1931年1月17~20日、名古屋放送で四日連続「祐天吉松」を口演。

 長年名古屋で腕を磨いた後、帰京。先生の愛楽は既に死に、東家楽燕の門下へおさまる事となった。帰京を機に「末廣友若」と改名。

 浅草に居を構え、興行社の仕出しから努力を重ね、徐々に認められる看板となった。

 1933年6月、木村友鷹の紹介で身竹清作青年が入門。「末廣友成」と名付け、弟子にした。この人は98歳まで生き、21世紀まで舞台に出続けた貴重な人材であった。

 この頃、母と再会。しかし、母親は会うなり「何しに来たんだい」と怪訝な顔で言ったそうで、「自分にも事情がある。芸人の息子とは情けない」といい、友若を泣かせた。友若は涙を流しながら「母に会いたかった」というと、母親は「私も忘れた事はない」と静かに泣いた――というが、友若はそれ以来、母とわだかまりが出来てしまい、本当の「瞼の母」になってしまった。

 飛鳥井友若を名乗った事もあるが、これはどうもレコードの二重吹き込みを便宜上言い訳するために名付けたようである。

 1934年11月、オーゴンレコードより「忠次赤城颪」を発売。

 1934年12月、ポリドールより「清水次郎長」「忠治股旅日記」を発売。

 1935年7月、リーガルレコードより「弥次喜多東海道膝栗毛」「続弥次喜多東海道膝栗毛」を発売。このレーベルの中に「東家燕之丞改め末廣友若」とある。

 1935年9月25日、JOAKに出演し、全国中継で「流れ旅佐渡島」を口演。これと前後してコロムビアと契約を結び、専属芸人となる。コロムビアの大衆盤・リーガルレコードより多くの作品を発表した。

 1935年9月、リーガルレコードより「秋葉の火祭り」を発売。

 1935年11月、リーガルレコードより「甲州の夜嵐」を発売。

 1936年3月、リーガルより「血煙り高田馬場」を発売。

 1936年8月、リーガルより「天保六花撰」を発売。

 1936年12月、リーガルより「渡り鳥富士川下り」を発売。

 1936年の番付では前頭15枚目。すぐ上に天中軒小入道、木村重行、東家楽浦などがいる。

 1938年1月、リーガルより「死線を越えて」を発売。

 1938年3月、リーガルより「盲目伝令二人三脚」を発売。

 1938年4月、リーガルレコードより「遺骨進軍」を発売。

 1938年7月、リーガルより「軍刀魂あり」を発売。

 1938年9月2日、NHKに出演し、「南京一番乗り」を放送している。

 1938年10月、リーガルより「壮烈岸部隊」を発売。

 1938年12月、リーガルより「名馬霊あり」を発売。

 1939年の番付では、広沢虎若、木村若衛と共に「俊英」と別格。

 1939年7月5日、NHKに出演し、「大石と池田」を放送。

 1940年3月21日、NHK静岡に出演し「仲間義士」を放送。

 1940年9月14日、NHKに出演し「寛政曾我」を放送。

 1941年の番付では前頭六枚目。

 1941年5月3日、NHKに出演し、新国劇とタイアップして「浪曲ドラマ・恩讐の彼方」を放送。

 1941年8月15日、NHKに出演し「仲間義士」を放送。

 1942年6月7日、NHKに出演し「大石の生立ち」を放送。

 1942年8月下旬より11月まで、昭南周辺を軍事慰問に出掛けている。同行は堀井清水、曲芸の富士幸三郎、新日本ショウなど。引率は後に作家となった瀬戸口寅雄であった。

 1943年の番付では「巨星」と別格。

 1944年9月25日、NHKに出演し「無法松の一生」を放送。

 1945年4月18日、NHKに出演し「恩愛上州路」を放送。

 戦時中も盛んに慰問や寄席に出演し、空襲の中でも評判を呼び続けた。一方、弟子の友成が出征し、一時消息不明になるなど(間もなく復員)、心労も多かった。

 1945年8月15日、終戦を迎える。それから2週間経った8月29日、八高線列車正面衝突事故に遭遇。この事故で列車を投げ出され急死を遂げた。

 これからという時の死であって、関係者は唖然としたという。奇しくもその日は帰還を待ち望んでいた弟子の友成が偶然復員した日であり、友成は挨拶へ向かうと師匠の葬儀をやっていて唖然としたという。

 息子の孝は三門博の門下に入り、「三門孝」として活躍していたが、浪曲衰退に際し、歌謡漫談に転向。神ブラザーズの伊東たかしとして、1970年代まで活躍を続けた。

[random_button label=”他の「ハナシ」を探す” size=”l” color=”indigo”]

コメント

タイトルとURLをコピーしました