中毒死をした期待の星・吉田奈良右衛門

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中毒死をした期待の星・吉田奈良右衛門

 人 物

 吉田よしだ 奈良右衛門ならえもん
 ・本 名 ??
 ・生没年 1890年代?~1913年9月
 ・出身地 香川県

 来 歴

 吉田奈良右衛門は戦前活躍した浪曲師。二代目吉田奈良丸の弟子で、奈良右衛門と名付けられ、修業をおさめて独立。売り出そうという矢先にフグの中毒に当たって夭折した、という可哀想な人物であった。

 出身は香川県大内であるらしい。『大内町史』に――

夏祭りにはよく浪花節、それも旅回りの浪曲師によって演ぜられた。もともとこの地方は浪花節の盛んな土地柄で、二代目吉田奈良丸(大和橡)の門下で嘱望されながら若くして世を去った吉田奈良右衛門……

 とあるのが確認できる。

 本名・経歴等謎が残るが、梅中軒鶯童が駆け出しのころに一本立ちした所を考えると彼らより少し上、明治20年代の生まれとみるべきだろう。

 明治末に二代目吉田奈良丸の門下に入り、「吉田奈良右衛門」の名前をもらって修行生活に入った。

 1912年5月、『浪花節義士銘々伝』に「大高源吾」、『浪花節怪談集』に「怪談化物屋敷」を掲載。

 残された速記や口上を見る限りでは師匠譲りの『義士伝』を中心に世話物も怪談もこなす芸達者だったようである。

 この頃、東京進出の夢諦めた梅中軒鶯童と一座を組んでしばらく行動をしている。そのおかげでわずかであるが、その面影を知ることが出来る。

 そもそものきっかけは女義太夫・豊竹呂昇が立てた劇場・松の座に呼ばれたのがきっかけだそうで、『浪曲旅芸人』によると――

 一座は少女横綱という看板で岡田千代子、私と吉田奈良右衛門、三座合同の形式で、特別余興として三河万歳の鈴木源十郎が加入した。

 がその顔触れ。

奈良右衛門は奈良丸門下で、美芳・一若に次ぐ秀才、この時が年期明けの披露だった。

 との事で、芸は相当に自信があったのだろう。この松の座は設備こそ悪くなかったが三味線があまりいないという欠点があり、その欠点を埋めるために奈良右衛門は実家から妹を呼んでしごき上げたという。『浪曲旅芸人』を引用してみよう。

松の座の場合は、立て三味線に春之助という腕の良い人がいたが、旅に出る三味線がない。そこで奈良右衛門が郷土讃岐の三本松から妹花子を呼び寄せて、松の座で僅か十日か二十日のお稽古で、常立て三味線として旅へ連れて出たのだから、無理というよりもむしろ乱暴といわねばならぬ。立三味線ともなれば三年五年の修業では至難だというのに、調子も揃わぬ素人を以て、これをあてるなど無茶苦茶だ。然しその不可能を可能とした奈良右衛門兄妹は実にえらいもので、毎日乗込みの有無に拘わらず早朝からの猛稽古、奈良右衛門直々の稽古台で一バチ狂っても拳固が飛ぶ。頭に、頬に、折檻に近い烈しい稽古、四年五年にしてなお困難なる立三味線、僅か一ヵ月足らずの旅が終るころには立派に仕上げてしまった。

 かくして妹のスパルタ教育にも成功し、自身も売り出そうとした矢先の1913年、ポックリ死んでしまった。

 梅中軒鶯童によると、「惜しいかな、この翌年マムシの生胆を食い過ぎて死んだ。」という。まさかと思って調べていたら、岡田道一『家庭衛生問答』の中に――

失声には其原因を探ってからでないと無暗に薬は飲めない注意迄に申すが嘗て奈良丸高弟奈良右衛門は旅興行中大正二年九月大和の生駒山中で声の薬と河豚の胆を食って直ぐ死んだとの事です矢鱈に薬は飲めない。

 とあった。どうも中毒死で急逝したのは有名な逸話だったようである。

 なお、大正末から昭和初期にかけて「吉田奈良右衛門」という人物が出て来るが、彼は吉田元女門下の別人である。後に三代目奈良丸のマネージャーになった由。

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