末廣亭清風の息子・末廣亭小清風

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末廣亭清風の息子・末廣亭小清風

 人 物

 末廣亭すえひろてい 小清風こせいふう
 ・本 名 秦 弥之助?
 ・生没年 1890年?~1932年5月25日
 ・出身地 東京

 来 歴

 末廣亭小清風は戦前活躍した浪曲師。末廣亭の創業者・末廣亭清風の実子であったという。浪曲師として舞台に立ったが、父の引退と共にやめたらしい。

 生年は、芝清之『浪曲人物史』から割り出した。

 父が人気浪曲師・末廣亭辰丸であった事から、早くから浪曲をやっていた――らしいが情報がない。浪曲師としてはあまり冴えなかったらしい。

 1909年1月、神田市場亭にて父が末廣亭清風を襲名。それから間もなくして「末廣亭小清風」と改名した。

 1910年代後半に父が引退、死去した事もあり、末廣亭の席亭に就任。浪曲師から足を洗った模様。

 しかし、やる気はあまりなかったらしく、

 新宿育ちで「紀伊国屋書店」の創業者・田辺茂一は『わが町新宿』の中で、

晴風氏の嫡子二代目の秦弥之助さんは、こういう経営に、あまり乗気でなかった。

 というような事を書いている。

 1921年頃、末廣亭を譲渡。また、この頃二代目清風を便宜上名乗り始めたようである。

『小沢昭一がめぐる寄席の世界』の北村和夫の話によると、

 北村 明治の終わりぐらいに末廣亭清風という……。
 小沢 浪花節を語る方ですね。
 北村 その人が買い取って、自分が浪花節ですから、当然浪花節の定席にした。そのころはやっぱり浪花節の寄席とか、義太夫の寄席とか、講談の寄席とかそういうものが多かったみたいですね。この末広亭清風さんが買い取ったときに、末広亭という名前に変えたんです。清風さんは大正時代に亡くなって、秦弥之助という息子さんが受け継いだんですが、大正十年に新宿の大火というものがあって、三丁目のあたりがみんな焼け野原になった。新宿駅まで全部焼けてしまったようです。そのころの新宿というのは全然開けてなくて、甲州街道は荷車が二代しかすれ違えないほど細かったらしいですね。
 
北村 それで大火のあとに、こんな細い道ばかりじゃいかんというので、今の新宿通りと明治通りの区間整理をして、広い道を造った。末廣亭も区間整理に引っかかったんで、大正十年に今の位置に移って、浪花節ではなく落語の寄席としてやってたんです。

 と語っている。

 末廣亭を売ったお金や何やらで、その後は楽隠居をしていた模様か。

 1932年5月、41歳の若さで没したという。墓は回向院にあるそうだが、なぜか「秦弥三松」として記録されている。父の死後、末廣亭という家業を継ぐために、父の名前を襲ったのだろうか。その辺りの事情は判然としない。

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