興行師から浪曲師に・玉川勝太夫

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興行師から浪曲師に・玉川勝太夫

 人 物

 玉川たまがわ 勝太夫かつだゆう
 ・本 名 松森 豊光
 ・生没年 1901年~1967年7月13日
 ・出身地 長野県 松本市

 来 歴

 玉川勝太夫は戦前活躍した浪曲師。長野を代表する大興行師であったが、戦時中の興行難で知り合いの浪曲師・玉川勝太郎に弟子入りし、そのまま浪曲の芸人になってしまったという変わり種であった。

 経歴は芝清之『浪曲人物史』に詳しい。 

 出身は松本市。父は酒屋を営んでおり、結構裕福だったらしい。

 幼い頃から浪曲が好きで、15歳の時、浪花亭某と名乗る浪曲師と面識を得、雲右衛門の所に紹介されるが弟子にはならなかった。

 それでも浪曲を自己流で習って素人でやっているなど、根っから好きだったようである。

 その内、興行師を志すようになり、松本市に興行社を設立。浪曲師や芸人を呼んで、長野県内の興行を行うようになった。

 1927年、二代目玉川勝太郎の妻から三味線の手ほどきを受けていた玉川和久美と結婚。

 1930年ごろには、信濃劇場を経営し、長野でも指折りの興行主となった。

 1932年、二代目玉川勝太郎が生まれるとすぐさまその才能を見抜き、二代目を担いで長野の興行権を掌握した。

 勝太郎が華々しく売れると同時に、廣澤虎造や寿々木米若の興行権もゲットし、長野の興行界では相当な顔役になったという。

 ある時、頼んでいた浪曲の座長が急病で倒れ、代役で舞台に上がった。聞き覚えの一席をお茶濁しに演じたが、素人ばなれをした演技と節調に観客は感心し、大喝采を浴びた。

 これに気をよくした勝太夫は徐々に舞台へ上るようになった。

 その後、日中戦争が勃発し、世間が統制を受けるようになると劇場の興行も不安定になった。「このまま劇場を売って浪曲師になろう」と決意した彼は、懇意の二代目勝太郎の身内となって、「玉川勝太夫」と改名した。

『東西浪曲大名鑑』ではなぜか「初代勝太郎の弟子」となっているが、初代は1925年に死んでいるため、それはない。

 その後は、勝太郎について全国を回ったり、長野県下で独自の興行を打ったり、と珍しい売り出し方をした。

 師匠譲りの『天保水滸伝』の他、『太閤記』『水戸黄門』『雷電為右衛門』など十八番は多かった。

 しかし、1945年に思う所あって引退。再び興行に手を染めたらしいが――9人の子どもがあり、これを全て育て上げたというのだから大したもの。

 1967年に66歳で死去。残された妻の和久美は「玉川喜代江」としてカムバックし、夫の弟弟子にあたる玉川次郎や三代目玉川勝太郎の曲師として活躍した。

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