春日井梅鶯の名付け親・春日井梅吉

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春日井梅鶯の名付け親・春日井梅吉

 人 物

 春日井かすがい 梅吉うめきち
 ・本 名 ??
 ・生没年 
1870年代~1931年以降
 ・出身地 ??

 来 歴

 春日井梅吉は浪花節黎明期から戦前まで活躍した浪曲師。当人はドサ周りの浪曲師で終ったが、春日井梅鶯の力量や未来を見抜き、春日井の屋号を再興させることに成功した。

 芝清之『浪曲系図』によると、二代目春日井松之助の弟子にあたるという。

 春日井という名跡は、春日井松之助から始まる。春日井松之助は浪花亭駒吉以前の大御所で、1879年に浪花節組合が設立された時には初代会長に納まっている。

 明治30年代まで、春日井・浪花亭という二大流派が競い合っていたというが、文之助の死によって一門は分裂。

 春日井文之助は雲右衛門の曲師となり、その後を襲った二代目文之助も胃癌で志半ばで死去。松之助の倅が、「二代目松之助」を襲名するものの、パッとすることなく引退してしまった。

 震災以降、春日井を名乗る浪曲師はないに等しい状況になり、僅かに梅吉が千葉周辺を巡演して、春日井の屋号を継承しているのに過ぎなかった。

 その梅吉も曲師を雇う金がなく、弾き語りで浪曲を演じていたという。芸そのものはあまり上手くなかったそうで、ドサ周りに終わったのもそうした要因があったのだろう。

 1930年頃、天昇軒若丸というセミプロの浪曲師と知り合う。彼は千葉鶴舞の百姓の倅であったが、15才で父親と死に別れ、メリヤス工場に勤めながら浪曲を演じていた。

 観客の胸ぐらをつかむような大音量の浪曲と、巧みな美声に感心した梅吉は、若丸と親しくなった。

 そして梅吉は若丸を一座に誘い、しばらく旅回りに出かけた。そこで、若丸の芸が本物であることを確信した梅吉は、「東京へ出なさい」と強く勧めた。

 そして、「春日井」の名を継いでくれるように諭してくれたそうで、

「天昇軒若丸ではスッキリしないから、昔から名家として知られる春日井を名乗ってはどうか」

 と、若丸に「春日井梅鶯」という名前を与えて、舞台に立たせた。若丸が美声だったところから「梅に鶯」とかけたらしい。

 その後、梅鶯の後見役のような形でしばらく巡業していたが、中風に倒れ、舞台から退いたという。

『浪花節一代』で春日井梅鶯当人が語った話では、

 すると、一年経つか経たないうち、梅吉おじいさんは中風で倒れてしまったので、已むなく独りぼっちで田舎廻りをしながら修業にはげむのでした。

 名前を授けた梅鶯は1931年に上京、『赤城の子守唄』をはじめとする抒情溢れる浪曲で一世を風靡した。

 梅鶯の下には数百ともいう弟子が集い、春日井は一躍東京浪曲界の名門として返り咲いた。梅吉は弟子の出世を遠い田舎で心待ちにしながら間もなく亡くなったという。

 なお、一部文献では「14歳で梅吉に入門」という記載があるがこれは嘘。14歳とは浪曲にハマり出した頃である。

 梅鶯自身は「梅吉おじいさんと1年ほどいるかどうか」と発言しており、他は「井の中の蛙的であるが独学で覚えた」といっており、梅吉と深い師弟の契りを結んだわけではない。これが定説のようになっているので困るっちゃ困る。

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