台湾勤務の巡査から浪曲へ・浪花亭偲

台湾勤務の巡査から浪曲へ・浪花亭偲

 人 物

 浪花亭なにわてい しのぶ
 ・本 名 小豆澤 祐興
 ・生没年 ??~1923年春
 ・出身地 ??

 来 歴

 浪花亭偲は浪花節黎明期から、大正初頭にかけて活躍した浪曲師。元々は台湾の巡査であったが、浪曲に興味を覚え、浪曲師になった変わり種であった。矢野龍渓の『経国美談』などを看板にしていたそうであるが、最後は寄席のトイレで卒倒し、息を引き取った。

 詳しい経歴は不明。

 本名は『淺草繁盛記』より割り出した。大正中頃までいたにもかかわらず、『芸人名簿』には記載がない。

 元々は台湾の巡査だったそうで、『都新聞』(1923年5月27日号)の中に、

 元は台湾の巡査であつた。早稲田にちょつとゐた事もある。巡査時代に青山隠田の神様飯野吉三郎君が拉してきて、佩剣を張扇に代へさせたのである。矢野文雄の「経国美談」や「浮城物語」や新小説をうまくコナし、相当に聞かせたものである。

 とある。また、深海豊二『立志成功苦学の裏面』という書物の中に、元々青年同気社という団体で苦学生をやっていたそうで、深海豊二を同社に紹介して斡旋を取った恩人であったという(ただ、山下泰平氏の話では青年同気社は会社ではなく苦学生を保護する団体のようなもので、結成し一年弱は新聞配達の仕事を紹介し保護もしてたんだけど立ち行かなくなり、この時代には半ば詐欺組織になってた感じで会社ではない。とのこと。)。深海豊二によると――

此小澤と云ふ人は当時、某活版所の夜勤校正係をしてゐて、昼は早稲田の国文科に通ってゐた人だ。(中略)さうしてゐる中にその小澤と云ふ人は、遂に行方不明になって終った。私は不思議な人だと思ってゐたら、小澤と云ふ人は終に浪花節語りとなって終ったのであった。尤もそれは数年の後に再会して知ったのである。(その人は現在浪花亭偲と云ってゐる。)

 師匠は浪花亭峰吉――と当時の資料にあるが、判然とせず。

 明治40年代から大正一桁にかけてはちょっとした真打だったようで、浪曲専門寄席でトリなどを取っている。

 1923年春、向島隅田館という寄席に出演中、トイレで卒倒し、そのまま息を引き取った。『都新聞』(1923年5月27日号)に、

 向島の隅田館といふ寄席の厠で卒中で浪花亭偲が死んだ。便所で死ぬとは数奇な運命であった。

 と書かれている。

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