皮肉な達人・京山福圓

[random_button label=”他の「ハナシ」を探す” size=”l” color=”indigo”]

皮肉な達人・京山福圓

 人 物

 京山きょうやま 福圓ふくえん
 ・本 名 森喜三郎 
 ・生没年 1888年~1938年以降
 ・出身地 関西

 来 歴

 京山福圓は明治~昭和にかけて関西一円で活躍した浪曲師。京山福丸の門下生で、梅中軒鶯童にして「達人」と呼ばれるほどの芸達者であったという。梅中軒鶯童に『吉原百人斬り』をつけたのはこの人だという。

『浪花節名鑑』によると――19才の時に京山福丸(桃中軒福右衛門)に入門。神戸小野八幡筋其門亭で初舞台を踏んだ、とある。

 20代で既に相当な演者だったそうで、師匠の福丸が桃中軒へ移籍した後も一人独立した形となっている。

 主に『慶安太平記』『吉原百人斬り』『伊達騒動』といったお家騒動物を得意としたそうで、モタレの名人として名声をほしいままにした。

 その芸は後の名人・梅中軒鶯童にして「達人」と言わしめる程で、京山幸玉と並んで色々な芸を教わった――という。

 一方、皮肉屋の質があったそうで、京山幸玉のように親身になって教えない性質があったという。『浪曲旅芸人』の中で、

芸の達人には意地悪が付きものなのだろうか。いま一人京山福円という達人がいた。桃中軒福右衛門がまだ福丸当時の門人だが、ネバリのあるいい浪花節だった。この人にも私は「籠釣瓶」「伊達騒動」など、口ヅケで譲って貰ったが、それがなかなか大変なのだ。その当時私が西淀川の浦江に住居していたころで、朝五時に家を出て築港夕凪橋の福円さんの宅まで、まだ市電が動いていないので歩いて行く、そして表戸を開くまで門口で待って飛込び込む。そうしなくてはすぐ逃げられてしまうのだ。散々御機嫌を取結んで一席のネタを話して貰う。

 と、意地悪なエピソードが紹介されている。

 こうした底意地の悪さはどうしても人付き合いの上での瑕瑾になったらしく、遂に大名人として名を残せなかったのは、そうした意地の悪さにあるのではないだろうか。

 それでも、梅中軒鶯童の十八番となった「籠釣瓶」を譲り渡したのは一つの功績といえる。

 1923年に出された『関東関西では浪界名家番附』では前頭30枚目。「なんだその程度か」と思うかもしれないが、前頭の筆頭が京山幸玉、次いで春駒吾一呑風円吉……と浪曲界に名を残す名人そろいの為、普通にすごい位置ではある。

 それでも、昭和初期まで古老として活躍し、枯淡の芸を聞かせて関係者を喜ばせていたという。

 1934年の番付では「別格」として京山円州、宮川右近などと共にランクイン。

 1938年の番付では「行司」という形でランクインをしているが、これが最後の消息で間もなく番付から姿を消す。

 引退したか、没したか。

[random_button label=”他の「ハナシ」を探す” size=”l” color=”indigo”]

コメント

タイトルとURLをコピーしました