小柳丸の師匠・港家柳蝶

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小柳丸の師匠・港家柳蝶

 人 物

 ・本 名 宇田川 繁次郎
 ・生没年 1879年1月20日~1926年以降
 ・出身地 ??

 来 歴

 港家柳蝶は、戦前活躍した浪曲師。堺正章の伯父・港家小柳丸の師匠ということ以外、これという特筆事項のない不思議な浪曲師である。

 経歴等は不明。生年と本名は『芸人名簿』より割り出した。

 明治中頃に浪曲界入り。師匠は港家大夢。前名・港家扇蝶といった所から、蝶の字をもらい、港家柳蝶。若い頃は師匠同様、名古屋を拠点にしていた。

 1906年頃には既に一枚看板だったと見えて、師匠の扇蝶や兄弟子の小扇次、儀蝶などとともに東京の寄席に出演するようになる。

 ただ、名古屋を拠点にしていたせいか、同行はつかみづらい。東西を行き来する生活を送っていたようである。

 1910年頃、栗原留吉なる青年を弟子として、「小蝶」と名付けた。この青年こそ、後に浪曲界の大スターとして君臨した港家小柳丸である。彼の弟が喜劇俳優、堺駿二。堺正章は甥にあたる。

 小柳丸を一人前の真打にした後は、「誠心会」なる会を立ち上げて、後進の指導や売り出しに尽力を注いだという。ある意味では楽屋名人だったきらいもありそうである。

 寄席では相応の人気を集めたというが、最終的に大劇場やレコードまで行きつくような芸ではなかったという。下手ではなかったそうであるが、余りにも寄席打ちだったというべきだろうか。

 1926年1月11日、創設したばかりのJOAK(ラジオ)に出演し、『紀伊国屋文左衛門』を放送。これが最初で最後の浪曲放送となった。

『日刊ラヂオ新聞』(同日号)に、僅かな記載が出て居るので引用しよう。これが柳蝶を偲ぶ数少ない代物である。

◇柳蝶さんの事◇ 浪花節は元来江戸子気風を以て曲したる関東節、大阪風を曲したる関西節とあつて、港家柳蝶は前者にして斯界にかなりの年月を修業し現在も関東浪曲誠心會を起し、子弟修業の指導に市内定席にても真打として、客に良くうけ、彼は後輩によく努めた、彼の弟子に関東節の第一人者として、ソウ/\たる小柳丸を斯界に出す等を以て彼の人となりを知る。放送に対しては始めてだが得意中の読物、百万両、宝の入船、紀伊国屋文左衛門を放送する事さぞや満都の人気ラヂオファンの期待を十分に満たす事と思ふ

 この後しばらくして没したのか、表舞台から消えてしまう。最初から最後まで謎の存在である。

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