梅中軒鶯童を私淑した梅乃井鶯

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梅中軒鶯童を私淑した梅乃井鶯

 人 物

梅乃井うめのい うぐいす
 ・本 名 森長 忠勇
 ・生没年 1910年~1977年以降
 ・出身地 島根県

 来 歴

 梅乃井鶯は戦前戦後活躍した浪曲師。元々宮川系の浪曲師であったが、長らく梅中軒鶯童を私淑し、鶯童の節、鶯童のネタを継承した不思議な浪曲師であった。 

 安斎竹夫の『浪曲事典』に経歴が出ていた。

①航空隊入隊前に負傷し浪曲入り②昭和七年、宮川華月、華燕を名乗る。③昭和十年四月梅乃井鶯と改名④「原敬の最期」「湖南事件」「乃木将軍」「吉原百人斬」「難波福」⑤梅乃家糸枝(※曲師)⑥本名・森長忠勇、明治四十三年、島根県生まれ、農林学校卒

 当時としては農学校に進学する程の頭を持ち、ケガさえなければ航空学校にも入れたというのだから、相当な秀才児だったのだろう。そうした高学歴の経歴は、当人の人格にも影響を及ぼしていたらしく、先輩を立て、後輩にも優しい、芸人には稀な常識のある人物だったと聞く。

 1932年、宮川華月に入門。この華月という人は、関西浪曲の中堅であった文殊軒松月の弟子であったが、そこまで立派な看板ではなかったという。なぜこの人を選んだのか、今となってはわからない。

『上方芸能』によると「宮川小松月と名乗り、京都福真亭で初舞台」とある。

 22才での入門は、当時は遅すぎる入門であったが、そこを努力で補った。早くから鶯童の芸に着目し、その芸や話術を物にしようと努力を重ねた。

 1935年に独立し、「梅乃井鶯」と改名。名前は梅中軒鶯童に私淑したものだという。大阪の寄席と地方巡業を中心に努力を続け、鶯童からも目をかけてもらえるようになった。

 1941年、浪曲番付に初入選し、前頭18枚目。ほぼ同位置には、鶯童の弟子・鳳童(天龍三郎)、戦後も活躍した近江源氏丸がいる。

 1943年の番付では、「新鋭」として近江源氏丸、八洲天舟などと並べられている。

 戦後メキメキと頭角を現し、前頭、関脇として浪曲番付に載るようになる。

 1956年12月22日、毎日放送の「浪曲研究会」に出演。梅中軒鶯童譲りの「吃の又平・桑名の巻」を口演している。

 1957年12月21日にも「浪曲研究会」に出演、「中江藤樹とその母」を口演している。

 1966年2月、「浪曲親友協会創立80周年記念特別興行」と称して大阪朝日座で浪曲大会が行われた際のパンフレットにも経歴が出ている。

 時代の流れに遅れていると云われた浪曲が最近復調にあることは私等浪曲人が非常に勇気づけられるところであります、庶民の中に生れ庶民によって育てられた浪曲今後益々ファンの皆さまに喜んで頂ける浪曲に精進して行きたいと思いますー
 これが、梅乃井の云ってる言葉です。 二十五才で浪曲界に入った、年数的にはずっと後輩の部に属するわけであるが中堅の諸先輩に伍して活躍している、美声で調子の良い芸だ。 本当の師匠は宮川松月(文珠軒) の門人だった宮川華月という人だったそうだが、いまや鶯童調を代表する一人のようなことになって、自分では鶯童門下であるが如く意識するのであろうが、鶯童の前には師礼を尽している。非常に常識の発達した人物だ。

 その後も中堅・古老として第一線に立っていたが、60を過ぎて体力の限界や諸事情のために引退を決意。

 1976年8月、朝日座で引退公演を行い、舞台を退いた。引退公演の一コマが『てんのじ村の芸人さん』という写真集の中にある。

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