二代目春野百合子の指南役・吉田奈良英

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二代目春野百合子の指南役・吉田奈良英

 人 物

 吉田 奈良英ならえ
 ・本 名 和田 峰太郎
 ・生没年 1898年3月5日~1952年
 ・出身地 関西

 来 歴

 吉田奈良英は戦前戦後活躍した浪曲師・浪曲三味線曲師。元々は二代目奈良丸門下の俊英であったが、同じ兄弟弟子の奈良千代と結婚。後年は浪曲三味線に転向し、夫婦仲よく稼いだ。二代目春野百合子の手ほどき役としても名を残す。

 生年は「陸恤庶發第七七七號 船舶便乗願ノ件申請」という書類から判別した。「三味線 中 和田峰太郎 和田峰太郎 明治三十一年三月五日生」とある。

 前歴は不明であるが、吉田美芳、吉田一若(三代目奈良丸)と近い兄弟弟子だった事を考えると、明治末から奈良丸の門下であった可能性は高い。

 当時、奈良丸は桃中軒雲右衛門と並ぶ大スターであり、多くの劇場や寄席を回り、豪勢な生活をしていた。奈良英もまた、美芳や一若と共に巡演に連れられ、師匠の前読みとして活躍した。

 当時の広告等を見ると、『大石東下り』『南部坂雪の別れ』『神崎東下り』『赤垣源蔵』『桜川五郎蔵』と吉田畑のネタを得意としている。他にも『文覚上人』なども演じた。

 1917年3月、奈良丸、美芳と共に渡米公演。二人の前読みとして前座を勤めている。当時100人近くいた弟子の中で、この二人が選ばれた点を考えると、相応に優秀な弟子だったのだろう。

 ただ、当時の『ハワイ報知』とかを読むと、二人の天才を前に色々きつかったのか「可もなく不可もなし」「あまりよろしくない」と評判は微妙な所。師匠の奈良丸がいては仕方ない所ではある。

 半年ほど、アメリカ本土とハワイを巡り、先に美芳と共に帰国。師匠の奈良丸はウィルソン大統領と対面し、大きな話題となった。

 帰国後、引き続き奈良丸一行で活躍していたほか、自身でも一座を率いて全国を巡演していた模様。二代目が絶頂期だった事もあり、「二代目奈良丸高弟」というのが前面に出されている。

 1921年春、桃中軒雲太郎が「二代目雲右衛門」を名乗り、ハワイ巡業する事となった。奈良英もこれに参加をして、再渡米を果たす。

 こちらも半年ほど巡演して帰国。その後は同門の吉田奈良千代と結ばれ、夫婦で二枚看板を出し、巡業していた模様。

 奈良千代の方が人気が高く、実力もあった事から奈良英は、妻のサポートに回り、この頃から浪曲三味線にも手を付け始めたらしい。あくまでも妻をトリ・真打に立て、自身は前読みや三味線の立場でも厭わなかった。これが夫婦円満の秘訣だったのではないか。

 1929年夏、3度目の渡米。今度は妻の奈良千代を座長に、弟子を二人引き連れた水入らずの公演であった。女3人に男1人の座組で、奈良英は前座に回されたが特に不平不満なく、楽しくハワイを巡演したらしい。

 1930年の新年はハワイで迎えた。妻の奈良千代の人気は目覚ましく、どこへ行っても大入だったというのだから、奈良英も鼻高々だった事だろう。

 帰国後、本格的に三味線弾きに転身したらしく、表にあまり出て来なくなる。二代目奈良丸以来、色々な芸人を見聞きしていた関係から三味線には強く、節も色々知っていた。奈良千代や弟子からしてみればいいお師匠さんだった事だろう。

 この教え上手ぶりは師匠の奈良丸も認知していたようで、「芸を教わるなら峰の所へ行け」という程信頼していたという。この信頼を受けて委託されたのが師匠の娘・二代目春野百合子であった。

 春野は『月刊浪曲99号』(1990年6月号)の中で、奈良英に教わった記憶を話している。

 父は、「そんなら峰のところへ行け。 教え上手やからな……」
 父の愛する弟子の一人で、吉田奈良 英さんは、 本名を和田峰太郎といって吉田奈良千代師の夫君。当時曲師さん。 近鉄線の彌戸にあるそのお家には、同じ格好のお弟子さんがたくさんいました。もう早々と逝ってしまった吉田駒千代さん(フラワーショーのリーダー)、四代目宮川左近さん(後の左近ショウのリーダー)等と、みんな、 私にとっては先輩です。でも、そんな順番も何も知らない私は、我家に起った大事件も何のその、毎朝子供に授乳したあと、洗い物も一、二、三とかたづけて、岸和田から弥戸の師匠の家まで出かけていきます。稽古中にお乳がはってくるし
「峰の小父さん、ドンブリ借してちょうだい」
 お乳しぼって、
「ハイ、続きをお願いします」
 実にあっけらかんとした弟子でした。 一ヶ月間にとりあえず七席のネタを覚えました。「お歌三平」「滝の白糸」 「人生の春」「赤城しぐれ」「斎蔵内蔵之助」 「三味線やくざ」「男の花道」ただ節は節、タンカタンカ。間も情もあったもんではありません。ひたすら暗記暗記……。

 それでも奈良英はうるさい事を言わず「まさ子ちゃん、もうそれだけ覚えたか」と目を細めて喜んでくれたという。

 戦後、老齢や敗戦の混乱から胃潰瘍になり、寝たり起きたりの生活を続けるようになる。その中でも春野百合子が来ると手ほどきを与え、三味線を弾いていた。

 百合子は『月刊浪曲101号』(1990年11月号)の中で、

 浪曲の看板を両親に持ちながら、 プロとしての手ほどきは、曲師の吉田奈良英さん(本名、和田峰太郎)その人の死に、親を失った程のショックをうけました。
 前にも書きましたが、近鉄線の彌戸まで、稽古に通った一ヶ月間、今になって考えてみますと、小父さんは名人とか名曲師といふよりも、ほんとに教え上手、弟子を育てるコツを知っている……思ひやりのある優しい師匠……それに何よりも父、大和之丞を心から敬愛している人でした。私が、御自分の与えた台本を、只々一生懸命覚えてくるのが、嬉しかったのでしょうか、とても可愛がってくれました。昭和二十三年の秋、京都座で襲名披露の時、小父さん、丁度胃潰瘍を患って吐血していたのです。でも「まさ子ちゃんは儂が、 ひいてやらんと、ようやらん……」と三味線台の上に洗面器を用意してひいてくれたものでした。

 と、深く感謝を述べている。

 師匠の娘が曲りなりにも春野百合子を襲名し、1952年には吉田駒千代、吉田奈良丸嬢などと共にハワイへ巡業に出掛けた。そうした成功を見届けながら、峰太郎は胃潰瘍に倒れ、遂に没した。

 百合子は帰国後、その訃報を聞いて、親の死にあったように嘆いたという。百合子のハワイ巡業は1952年の春から秋なので、その間に亡くなったことは間違いない。

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