川上音二郎の門下生出身・桃中軒香川入道

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川上音二郎の門下生出身・桃中軒香川入道

 人 物

 桃中軒とうちゅうけん 香川入道かがわにゅうどう
 ・本 名 草信 作太
 ・生没年 1887年1月13日~1920年代?
 ・出身地 岡山県

 来 歴

 桃中軒香川入道は、雲右衛門の売出し前後に活躍した浪曲師。元々は新劇の大御所・川上音二郎の門下生で、「香川次郎」と名乗った俳優であった。その異色な経歴でちょっと売り出したという。

 経歴は、1914年に出された『浪花節名鑑』に詳しい。

 桃中軒香川入道 本名・草信作太 

 氏は明治十五年一月十三日岡山を三里はなれた片田舎に生る幼時より劇を好みを趣味を有せる氏は軈て舞台に井でゝ天晴名俳優に成らんとの萌し灰かに顕はられたる時両親は憂慮し氏の高等小学校卒業後英国人ヒウス氏の経営に拘る英文学校に入学せしめ外国に乗出さん心算なりしに不思議にも謹慎の身体にて三星霜勉励辛酸を嘗めしも劇趣味を有する氏には到底不能なるを感じたる時折しも恰も好し幸か不幸か新派俳優川上音次郎の来たるを僥倖に其門下に投じたるは抑々氏をして今日あらしめたる所以なり

 そのため、当時の浪曲師には珍しく、学はあった。浪曲師時代は新作も読み込んだという。

 明治中期より勃興した川上音二郎の演劇運動に感化され、川上一座で全国を回ったという。その頃の番付を詳しく調べれば何か出て来るかも知れないが、「川上門下」という肩書だけの下廻りの俳優だった模様。そこまで出世しなかった。

 明治末、めきめきと頭角を現し始めた桃中軒雲右衛門に感化され、浪花節に転身。「雲右衛門から桃中軒を貰った」というふれこみで、明治末に売り出すようになる。ただ、この「桃中軒」が正式な拝命だったかは不明。勝手に名乗っていた可能性は高い。

 1911年10月21日より名古屋歌舞伎座に出演。『近代歌舞伎年表名古屋編』によると、

10月21日~ 浪花節 桃中軒香川入道、関東大助、吉川虎広、花川円玉、京山月美、京山三カ月(五歳)

  川上音二郎に雲右衛門という山っ気の強い人物を私淑した事もあってか、当人も山っ気が強かった。

 1912年に出された『浪花節倶樂部 雲』掲載の『京都より』という記事の中で、

□夢兄足下、明治座に女雲を見たりし吾輩は更に南座に桃中軒香川入道を見るの光栄に有し候、かゝるイカサマのみに檜舞台を荒らさるゝわが教徒は実に幸福なる土地に御座候。 
□香川入道の前身が川上門下のヘボ役者香川二郎なることも、流れ/\て大連にありし日、喜劇の中幕で一席丈、雲入道のやうな扮装にて入道張りに余興を唸りが評定となりし時「浪界の雲右衛門入道より」「劇中の雲入道に贈る」てふ卓子掛を雲入道より贈られし事や、それを自分勝手に「桃中軒香川入道に贈る」とやり直して大法螺吹きのイカサマ師と相成候事などは、兄の数度筆誅に加へられし處なんれば改めては不申候 
□只、まだ/\素人ばなれのせぬ似非芸を以て、雲入道より入道号を貰ひしなどゝ云ふ図太さが憎くて耐えられかね候、何れ其内大いに面皮を引剝く事に可致癇癪の起った時の筆は自由ならず先は右早々

 とボロカス貶されている。

 ただ、俳優上がりの特異な経歴はちょっとした話題だったそうで、メディア出演にも果たしている。

 1913年4月、時枝レコードより『なさぬ仲』を吹き込んでいる。

 1913年5月、時枝レコードより『勝田新左エ門子別れ』『倉橋伝助親子の別れ』を吹き込んでいる。後、ほぼ同時期に『中山安兵衛』を吹き込んでいる。

 1914年時点だと神戸に住んでいる事になっている。活躍の場も関西が中心だった模様か。

 1916年に雲右衛門が歿するまでは活躍が確認できるのだが、震災以降ぱったりと消息が途絶える。廃業でもしたのだろうか。

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