タヌキの岡本鶴円

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タヌキの岡本鶴円

 人 物

 岡本おかもと 鶴円かくえん
 ・本 名 竹川 亀吉
 ・生没年 1880年5月5日~1939年
 ・出身地 大阪市 流町

 来 歴

 岡本鶴圓は戦前活躍した浪曲師。一家離散という悲惨な境遇から一念発起をして大看板になった稀有な人物であると同時に、「タヌキ」というアダ名で慕われた。その名の通り、タヌキのような風貌をし十八番も「狸合戦」であったという。

 経歴は、『浪花節名鑑』に詳しく出ている。

 氏は明治十三年五月五日府下平野郷流町綿商竹川熊吉の息にして十歳の頃一人の妹す江に別れ未だ所在不明にて今日に至る迄それを気に掛つゝあり其より家は都合上大阪北区川崎一丁目へ来ると同時に母を失ない商業失敗のため谷町七丁目桝井綿屋に仕事中浪花節藝人と親しみ十八歳に岡本鶴治師の門に入り勉強中父に引取られ吉田久丸席の番をなし京山恭安斎師の元に一ヶ月仕込まれ初代吉川盛丸師の元に半ヶ年間の修業なし看板となり笑樂家賀嬢と一座なし各地にて好評を博せしため鶴治師に呼戻さる。氏は鶴圓と云ふよりも狸と云ふ方が常連への通名となれる程の愛嬌男なり。また鶴圓節として其節廻しの奇抜にして尤も男子に好まる。

 岡本という名前こそついているものの、京山宗家だった恭安斎や吉田久丸にも師事した点は意外である。

 明治30年後半には既に大御所だったらしく、梅中軒鶯童が幼い頃に父親が聴かせてくれたのが、京山小円とこの鶴円であったという。『浪曲旅芸人』に、

 たまに父と一緒の寝床に寝る時は、必ず添乳の子守唄のように浮連節を聴かせてくれた。それも決まって初代小円の節真似か、そのころタヌキという異名で人気のあった岡本鶴円の節真似だ。

 1913年1月22~3日、京都南座で行われた浪花節大会に出演。

『近代歌舞伎年表京都編』によると、「岡本鶴治・中川伊勢吉・藤川友春・鼈甲斎虎丸・京山春駒・吉田小奈良・岡本梅寿軒・宮川松安・日吉川秋水・廣澤菊春・浪花一右衛門・港家扇蝶・播磨軒天海・京山花丸・宮川金丸・竹林軒湖月」が芸を競い合ったという。

 非常に浮かれたような芸を得意としたそうで、『日布時事』の中に、

 昔し流行した浮れ節を聴く様な岡本鶴圓

 と評されている。ネタもケレン物が多く、客を笑わせたという。タヌキという風貌もまた愛嬌になったという。

 1920年代前半、オリエントレコードから『寛政御前試合』を吹き込んでいる。

 1923年5月、師匠の鶴治が引退。師匠から二代目鶴治を許され、1925年頃に襲名を果たした。

 その後も一枚看板で活躍を続けてきたが、1939年に没した――と『浪曲旅芸人』にある。

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