滑稽読みの東洋軒雷右衛門

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滑稽読みの東洋軒雷右衛門

 人 物

 東洋軒とうようけん 雷右衛門らいえもん
 ・本 名 森 利右衛門
 ・生没年 1878年~1933年?
 ・出身地 徳島県

 来 歴

 明治から大正末にかけて活躍した浪曲師。関西出身で、関西節を得意としたが東京を拠点としたという異色の浪曲師であった。滑稽なケレン読みが得意で、貴重なお笑い浪曲の第一人者として尊敬されたという。

 人気があった所から、『浪花節名鑑』に一応経歴らしきものが掲載されている。

氏は明治十一年徳島名西郡桑島に孤々の声を挙げ幼より音曲を嗜む二十一歳の時浪界に身を投じ吉川盛丸の門に入り吉川盛太郎と芸名を名乗り寝食を忘れ師盛丸の薫陶の下に技芸勉強の甲斐あり恰も旭日昇天の勢を以て三年後真打となる五年前東洋軒雷右衛門と改名し其披露を松島八千代座に於て盛になしたり。

 ただ、入門は20歳の春という説もあり、『読売新聞』(1927年11月1日号)の中では、

 抑処女放送する雷右衛門さんが斯道へ志したのは廿歳の春大阪でウナギ屋の職人をしてゐたが吉川森丸の浪花節を一晩聞いてウナギ屋勤めが厭になり森丸の門弟となって熱心に勉強し一年後には真打となつて芸名吉川盛太郎と名乗って売り出し四五年前から現在の芸名を名乗つてゐる

 とある。ウナギ屋の店員だったというのはここだけの記載であるが、しかし、「四五年前からこの芸名」というのは嘘。明治時代から既に名乗っているのである。

 師匠の吉川盛丸という人は、後年吉川島龍と名乗った人物。華やかな芸を得意としたという。 

 1909年、浅草にあった北村亭なる寄席を購入し、「盛々亭」と改名して浪曲専門の小屋として経営した――と『日本浪曲大全集』にある。

 1910年頃、東洋軒雷右衛門と改名。

 同年1月18日より、名古屋歌舞伎座で襲名披露公演を行っている。

 3月8日~14日、京都南座に出演。『近代歌舞伎年表京都編』によると、

8日 横川勘平 岡野金右衛門 
9日 小山田庄左衛門 大高笹売 水戸黄門 
10日 忠臣蔵刃傷と切腹 安兵衛婿入り 水戸黄門 
11日 不破数右衛門 赤垣徳利の別れ 水戸黄門 
12日 大石山科閑居 堀部安兵衛東下り 水戸黄門 
13日 南部坂雪の別れ 大高笹売 水戸黄門 
14日 丸津田越前守 壷坂霊験記 水戸黄門

 を演じている。この頃から既に水戸黄門を売りにしていたようである。

 節は関西節で、滑稽味を帯びたものが特徴で、そのくせ本格的な味わいを持たせたバランスのいい芸であったと聞く。滑稽物の他、『忠臣蔵』『乃木将軍』『天保六花撰』などバランスよく読んだ。

 一方、1913年には既に「人気が亡くなった」などと書かれている。『二六夕刊』(1913年6月30日号)に、

◇東洋軒雷右衛門 賀嬢を伴ふて帰京、本所寿座に出演す。同人は土地の者なり。人気も不人気も無い事なれど、賀嬢たるもの、当年の人気を得んこと思ひも寄らざるべく、顧る十五、六年前、今の雷右衛門は賀嬢の前講として月二十円の給料を得て、市場亭に初のお目見得。雷右衛門、今日の出世を喜ぶと共に凋落を傷む情、更に切なるものなくんば非ず

 1920年初頭、中国在住日本人の関係者に招かれて渡航。北京近郊を巡演して、日延べが出るほどの大入りを取った。

 1927年1月29日から2月3日まで「東洋軒雷右衛門引退記念東西合同」を浅草遊楽館で披露し、引退。 

 出演者は東武蔵、木村重松、東家楽鴈、浪花亭峰吉、木村重正、桃中軒巴右衛門、東家鶴燕、浪花亭奴、雲井雷太郎、東家愛楽、廣澤虎造、横田呑生み、浮世亭雲心坊、吉川島龍、寿々木米若、寿々木亭越造、寿々木亭馬生、吉川盛太郎、東家燕美丸。

 しかし、この記録はどうも『都新聞』の広告欄から見つけられない。2月1日からは木村友衛・友忠の「友進會」が出演している始末である。

 さらに、上の通り、ラジオには出演しており、引退というのはどうだったのか、という疑問が付きまとう。もっとも「舞台だけの引退」という事例――舞台には出ないがラジオやレコードには出るという事例はあることにはあるので、そんな所かもしれない。

 1927年11月1日、JOAKに出演し、『水戸黄門漫遊記』を読んでいる。

 名前は弟子に譲渡し、二代目が生まれた。この二代目の弟子のひとりが、宮川左近ショーで一世を叩き上げた暁照夫である。

 1933年頃まで健在だった――と正岡容は『雲右衛門以後』に記している。

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