エリート社員出身・津田清美

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エリート社員出身・津田清美

 人 物

 津田つだ 清美せいび
 ・本 名 友清 為一
 ・生没年 1880年~1944年以前
 ・出身地 福岡県

 来 歴

 戦前活躍した浪曲師。満州鉄道出身という変わり種のエリートであった。

 人気があっただけに『浪花節名鑑』、『読売新聞』(1928年10月15日号)などに経歴が詳しく出ている。

 家は柳川藩立花家の家臣という名門の家柄であったという。幼い頃、一家で上京、移住した。 

 当時としては珍しく、尋常高等小学校を経て、当時の名門校の一つ、旧制築地中学校に進学している。

 在学中、当時一世を風靡していた新派や新劇に憧れて中学を中退。

 山口定雄の弟子となり、新派の舞台に上がるが、まもなく実家の都合で廃業。

 帰郷後、従兄が満鉄理事の犬塚信太郎であったことから、満州へ渡り、満鉄の撫順炭鉱の社員として勤務していた。

 雲右衛門が満州巡業に来た際、その技芸に惚れ込み、満鉄の職を辞して、旅順へ移り、誰にも師匠につかず、独学で節を練り上げた。

 1907年、上京を果たし、一躍時の人となっていた雲右衛門の身内となる。同年、新富座で旗揚げ公演し、たちまち注目を集めた。 

 津田清美の名前は安倍晋三の曽祖父、大島義昌から名付けられたものだと伝えられる。

 雲右衛門亡き後は三代目鼈甲斎虎丸と兄弟分の盃を交わり、彼の弟分として君臨した。

 耽美で理知的な節と語り口で人気を得た。人物描写が得意で、正岡容は『雲右衛門以後』の中で、

満鉄社員から中年にして浪曲家となつた津田清美が、いつしか人物の活写に長じ、あれ丈けの腕になったことは確に異とするに足る。従って彼は普通人以上の常識もあり、趣味もあり、書道にも参じてゐる。

 と評している。『乃木将軍』『召集令』なども読んだが、十八番は雲右衛門譲りの『義士伝』。中でも『大竹重兵衛の朝風呂』は白眉という出来で「朝風呂」という大向こうがかかったほど。

 そのくせ、人間的には何所かとぼけていて、直言を辞さない所があり、東家楽燕が近くにいるのを知らずに「楽燕の浪曲は堅くて駄目だ、あんなものはよくない」と放言し、楽燕に「津田!俺のどこが悪いのか言ってみろ!」と逆捩じを食らわされて立往生する等逸話はある。

 長らく東京方の浪曲の第一人者として活躍。放送にレコードに凄まじい人気を集めた。

 1938年の番付では桃中軒白雲木村重浦と共に「顧問」に就任。

 1943年に弟子の桜童に二代目を譲り渡して引退――と『雲右衛門以後』にある。その後もしばらくは健在だったそうで、『読売新聞』(1953年1月29日号)の「浪曲特集」の中に――

舞台は退いたがなおカクシャクと生存している有名な浪曲家をあげると、「小松嵐」の初代東家楽遊、講談に転じ服部伸と改名した一心亭辰雄、春日亭峰吉、吉川島龍、津田清美などがいる。

 とある。

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