雲右衛門養子・桃中軒巴右衛門

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雲右衛門養子・桃中軒巴右衛門

 人 物

 桃中軒とうちゅうけん 巴右衛門ともええもん
 ・本 名 府内 義郎
 ・生没年 1883年前後?~1920年以降
 ・出身地 福岡県 福岡市

 来 歴

 浪曲中興の祖とうたわれる桃中軒雲右衛門の養子で、二代目を継げるだけの実力を有しながらも傲慢や諸事情で、遂になり損ねた浪曲師として知られる。

 前歴等は謎が多い。桃中軒雲右衛門が大々的に売り出す前からの弟子だったらしく、雲右衛門に見込まれて養子分となった。それらしい経歴は『日布時事』(1915年5月14日号)で語られているのがしのばれるくらいか。

巴右衛門に至っては十九歳の頃ほひから今日に至るまで約十一二年間を雲入道の教を受け殊に養子とまでなつて天晴二代目の雲右衛門を継ぐといふ人間だから……

 当時32歳と仮定すると、1883年頃の生れという事となる。

 入門は1903年頃というわけになるか。

 雲右衛門の節調をよく学び、いわゆる「雲節」を継承した。ネタも雲右衛門譲りの『忠臣蔵外伝』――『倉橋伝助』『忠僕直助』『大石東下り』『赤垣源蔵』などを得意としたという。

 ただ、間もなく雲右衛門と対立し、一度家を追い出されている。『日布時事』(1915年5月13日号)で巴右衛門が語った所によると、

巴右衛門は以前一旦雲入道の養子となったが元の女房の事で家を飛び出して一本立ちとなり健気にも若い身空で全国を巡業して居たがその後雲入道先生の怒りも解け芸人社会に関係の深い人々に依って和解し再び雲入道の養子となり本郷座で合併興行を遣った

 また、雲右衛門の弟子だった迫出雄は、『浪曲ファン』(1971年11月号)の中で、

迫 ええ、気は強かったですよ。弟子に巴右衛門というのがあった。この人は素晴らしくうまかった。先生は神道の方から権大教生という位をうけたが、巴右衛門も権大中教を貰った。先生は大場所に巡業に行くと頭に宝冠をつけ、シャクを持って町回りをしたものです。巴右衛門がこれを真似した。さあ、先生が怒って破門にしてしまった。”自惚れるな”って訳ですが、その破門の仕方がすごい。もう浪花節をやるなというわけだ。もしどこかでやっていても人を差し向けるからという権幕だった。

 と興味深い事を述べている。1907年頃にこの位を貰っているはずなので、この前後で喧嘩別れした模様か。

 雲右衛門から放逐された巴右衛門は雲右衛門の監視の無い所を求めて、旅巡業で暮らす事となる。しかし、その天分はそうあるものではないと見えて、再び養子縁組が復活した。

 1909年9月4日より13日まで、日本橋新富座でリサイタルを決行。青木昇(玉川の祖)、吉川小島、春日亭清吉、武蔵家嘉市などが出演。

 1910年、雲右衛門が長髪に辟易し、丸坊主にして「雲右衛門入道」となった際は未だ養子だったらしい。なお、雲右衛門が髪を落とした背景には、養子の巴右衛門も長髪という代り映えの無さもあったとか。

 1912年3月10日より20日まで、天中軒雲月と手を組んで、浅草国技館で二人会を開催。

 1914年、東照軒為右衛門が「巴右衛門」と名乗る事件発生。こうした一件も後の渡米へと繋がった模様か。

 1915年2月、在米の関係者に招かれて、渡米。17歳の天才少年で弟子の巴若とやす子という曲師が同行。

 3か月ほどかけて、サンフランシスコ周辺を巡業している。この日程は色々あるのだが省略する。

 さらに5月にはハワイ諸島へ移動し、ハワイ諸島――マウイからホノルルまで巡業した。

 12月25日、船に乗って帰国。

 1916年11月、師匠で養父であった雲右衛門が死去。この前後で雲右衛門との関係は悪化していたようで、養子縁組は解消。一門から総スカンを受けるようになり、当人も旅回りへと落ちていった。

 その後は零落の日々を送った――とまとめられたがるが、堅気になったらしい。『ハワイ報知』(1920年1月12日号)にこんな面白い記事が出ている。

▲巴右衛門が石炭成金 布哇で散々の不入であつた 

第二世雲右衛門と嘱目されて居た桃中軒巴右衛門は数年前布哇にやつて来て旭劇場を振り出しとして各島を巡業したが以つて生れた無愛嬌と書生気質が禍して号まんだの生意気だの罵倒され散々の不入りで日本へ帰った其後は何所にどうして御座るやら藝界に消息もスッカリ絶ち或る者は肺の爲めに死んだとまで云はれて居たが最近母国新聞の傳ふる所に依ると死んだと思はれた巴右衛門は尚ピチピチと此世に存在し而もスツカリ浪花節社会から泥足を洗って実兄が死んだ筑前博多の石炭やの跡継ぎとなり今は成金となりすまして居るそうだ過般和歌山市八番町の柴田と云ふ写真館に滞在してこれでも昔は忘れませんよと眼を平眼にしながら十八番の烈士喜剣を聞かせたさうだ、例の方に波打つ挑発は切り掃らはれる五分刈の丸坊主に黒の背広姿だとは変れば変わる世の中である

 もし、傲慢や山っ気さえなければ、間違いなく二代目雲右衛門を継げた人間であろう。しかし、今もさんさんと輝く雲右衛門の名を継いで、果たして幸せだったか、というとこれもまた判らない。

 一説によると、炭鉱経営で揉めた末に暗殺されたという。

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