天才少女から幹部へ・広沢夏菊

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天才少女から幹部へ・広沢夏菊

 人 物

 広沢 夏菊なつぎく
 ・本 名 鵜山 菊乃
 ・生没年 1896年~1943年以降?
 ・出身地 奈良県 北葛城郡

 来 歴

 広沢夏菊は浪花節黎明期から戦前にかけて活躍した女流浪曲師。父を浪曲師に持ち、独学で雲右衛門のネタや節を会得、「女雲右衛門」と称されるほどの悠然たる舞台で長い間人気を保った。

 父は初代廣澤虎吉門下であった広沢虎丸という人。経歴は、1915年発行の『浪花節名鑑』に詳しい。以下はその引用。

嬢は明治廿区年大和北葛城郡岡西村池田に生る父は浪界の古顔広沢虎丸の二女にして各大臣の御前講演の栄を辱ふし日本一との称ありし妙技にして角座にて成功せし女流浪花節の奇世の天才にして美音の一人なり少女の浪界に名を知られしもの実に此の夏菊に及ぶものなし殊に態度の悠々たる雲式にして頗る落付たる芸風にして近来稀れに見る処なり。

 幼いころから父の巡業に連れられ、10代で早くも「広沢夏菊」としてデビューしている。父から浪曲の手ほどきを受けたが、ベースは雲右衛門と奈良丸にあったそうで、特に雲右衛門の悠然たる舞台姿と「義士伝」の数々は自己流にアレンジしてよく演じたという。

 1909年には既に朝鮮半島の巡業を行っており、『朝鮮新聞』(1909年4月2日号)に、

▲竹園館 今晩の語り物左の如し 天神利生記宮本左門之助(広沢虎勝)関取千両幟千田川留吉(女十三歳 広沢夏菊)左甚五郎小刀名人(高山正喜代)天保水滸伝勢力富五郎(京山恭菊)肥後の夜嵐木村萬次郎堺濱寺の大仇討(広沢虎丸)

 とある。

 1909年11月1日より、名古屋桔梗座に出演。『近代歌舞伎名古屋篇』に「浪花節 大阪親友派広沢虎丸、女太夫夏菊(十三歳)」という広告がある。12月には同地の新栄座、金輝座と巡演を続けている。

 その後は東京にも進出し、全国を駆け巡る忙しい日々を送った。

 大正に改元する前後に独立。10代にして弟子を抱え、一座の座長として君臨する事となった。

 1912年2月13日から19日の1週間、南座でリサイタルを決行。相当の客を入れたそうである。忠臣蔵を中心に毎日義士外伝を唸り続けた。『近代歌舞伎年表京都編』に、

〇「明日から革新浪花節広沢夏菊一行が開演する。夏菊は東京で好評を博した当年十六歳の少女、京都では初出勤さうな。」

 といった記事が紹介されている。

 1914年春、桃中軒薄雲太夫と共に朝鮮巡業。『朝鮮新聞』(4月2日号)に、

▲寿館 東京大阪其他に於て娘浪花節の元祖と謳はれたる廣澤夏菊は開演以来毎夜大入にて以外の盛況を呈し居れるが一行中吉田大和の滑稽読物を始め薄雲太夫の美声ぶりは聴衆を唸らせ居れり

 といった広告が出ている。

 1917年3月より再び朝鮮巡業。『朝鮮新聞』(3月17日号)に「夏菊を聴く」という批評が出ているので引用しよう。

「夏菊」を聴く
久し振りに夏菊の「忠僕直助」を聴いた。声量は相変らず豊富である、節調も拙くない、而し雲に似て、入道の雄渾壮大がない同時に「華やき」が失せて、「寂寥」が見えて来た、浪花節を語る若い女にも老ひ行く月日の悲哀がある、それにしても彼の小刻みの節は幾分雲に似て居るのが嬉しい、雲の節調の律呂は、多くの場合刹那的である、それだけ創作的な香気を有して居る、入道の節を聴く度毎に私はこの新らしい香気を思ふ、夏菊の「直助」にも、其の香ひが味はれた、只だ憾むのは、節調に若い、元気と花やかさと、艶麗に乏しいの若かりし夏菊よりも寂しい、然し浪花節の好きな私には、関西節に二部の創意を加味した奈良よりも、其の基調を浄瑠璃に置いて、芝居気沢山の小円よりも、雲の、創意ある創作を真似た夏菊の「節」が、私等の感動生活に強い共鳴を伝へる(春汀)

 1918年発行の「大日本女流浪花節大見立」によると西の大関におさまっている。

 1920年、天満国光席の関係者によってつくられた女流浪曲連「国光女流団」にスカウトされ、その主砲となった。

 1923年11月、ニットーから『景清』を発売。

 この女流団の主砲として長らく寄席や巡業で活躍していたが、1930年代に入り活動が停滞する。家庭にでも入ったのだろうか。

 それでも一応の活躍はあったようで、戦時中の番付まで「古老」として入っている。

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