五色講談の伊藤高麗右衛門

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五色講談の伊藤高麗右衛門

 人 物

 伊藤いとう 高麗右衛門こまうえもん
 ・本 名 伊藤玖造
 ・生没年 1871年6月~1920年代?
 ・出身地 新潟?

 来 歴

  伊藤高麗右衛門は戦前活躍した浪曲師。

 元々は新潟で石油ほりの仕事をしていたそうであるが、新潟県の伝統芸能「五色軍談」を独学で勉強し、これを浪花節に変換。独流の節と語りで大看板になりあがった。

 本名と生年は『芸人名簿』より割り出した。

 高等学校を出た結構な学士様だったという。『大阪朝日新聞』(1911年9月14日号)に、

◇十五日から弁天座へ伊藤高麗右衛門といふ浪花節語が出勤する。 高麗はかつて高等学校へも入った事があると云ふので、有触れたチョンガレとはよほど行き方が違ふているさうだ。

 とあり、『大阪朝日新聞』(9月18日号)に、

◇浪花節語りといふもの一体何種があるものかヒョコリと現れる。 今度弁天座へ来た伊藤高麗右衛門といふ男、高等工業学校の出身で、どういふ了簡だか独流を開いて見たといふ話だ。聴いてみると成程口がこれだけ器用では工業家にはなれさうもない。今まで芽を出した中で一番この男がモノになっている。見つきは鬼右衛門ともいいたい恰好だが、円い大きな声を雲と奈良とゴッチャにした様な調子で悠々と転して行くところに一種の妙味がある。ただどこの誰だか地図をツジと云ふたりするのが耳ざわりだが、少し注意したら治る。とにかく好い種だから心掛け一ツで大きく成長するだろう。 初日以来満員の盛況。

『浪曲家の生活』にある浪花節語りの前職一覧には「伊藤高麗右衛門 石油の穴掘り」とある。新潟周辺で石油堀りの仕事でもしていたのだろうか。(新潟は古くから石油が出る事で有名)

 当時、新潟周辺で人気のあった五色軍談に魅了されて、その勉強を始めるようになったらしい。

 五色軍談は謎が多く残るが、ちょんがれや祭文の流れを汲んだ三味線芸能で、「三味線に合せて軍記物や滑稽物を語る」という浪花節の前身のような芸であった。

 ゴゼを中心として新潟県に定着し、昭和中頃まで地方芸能として語られ続けたという。

 新潟の民族雑誌『高志路』(1939年5月号)によると「昔し花川三篤の弟子で〆吉と云ったチョンガレ語りは時勢を見るの明があって早く浪花節に宗旨を代へし伊藤高麗右衛門又たは伊藤いろはと名乗って……」とある。

 正岡容は『雲右衛門以後』の中で、

 伊藤高麗右衛門 

 新潟地方に五色軍談と云ふものあり。
 浪花節と祭文とをつきまぜたやうな物語體の俗曲であつた。
 伊藤高麗右衛門は、その五色軍談からいでて、浪花節の世界に投じた。
 関東節で、新作古典何れにも長じ、晩年の高座には侮り難いものがあつた。
 いろはを名乗って隠退した。

 と記している。

 明治の末に志あって上京し、「伊藤高麗右衛門」と改名。各寄席に出るようになった。この時には既に一枚看板であったというのだから、相当に実力があったのだろう。

 また、五色軍談時代に鍛えた旅巡業もやっていたらしく、『近代歌舞伎年表名古屋編』をみると――

 1910年11月1日より16日まで、名古屋で興行。「金輝館 浪花節・伊藤高麗右衛門一座」とあるのが確認できる。  

 その後は北海道へ興行。1911年2月『歌舞伎』(129号)の「北海道より」に、

此外浪花節の東洋軒光右衛門、直井亭寿々武、花島徳三郎、東派亭徳三郎、伊藤高麗右衛門、鼈甲斎紫等が彼地此地と顔を出して……  

 1911年6月には、数年ぶりに新潟へ帰って関係者を驚かせている。『新潟新聞』(1911年6月24日号)の中に――

▲昔の〆吉に非ず、壽座へ高麗右衛門が掛ったといふと、ウム彼れかと新潟の人の多くは鼻で扱らってゐる、殊に北○になると、アノ〆吉かと云ふ挨拶だ。之れは本人に取って少からずかあいそうな事である、伊藤高麗右衛門と言へば何処へ出しても立派な看板となった今日、五年前の倉田亭辺りに居た花川〆吉と思はれちゃ高麗なるものウンザリするだらう、昔から英雄は郷党に容られずと云ったのも、前身を知るからだ。然らば〆吉は何処まで進歩したか、これ新潟の人の兎も角も聞いてやる可き処であらう。

 とかつての花川〆吉とは違う点を庇うように論じられている。

 1911年8月1日より16日まで、名古屋金輝館。  

 20日には蓬座に移動し、引き続き浪花節興行。  

 1912年1月1日より、金輝館で新春興行。

 震災前後に「伊藤天拝」「伊藤いろは」と改名した。晩年は宗教に凝り、「天拝」「いろは」というのだから、大胆と云えば大胆である。

『都新聞』(1924年7月4日号)に、

◇伊藤いろはといふのが乗り出した。名は新しいが、人物は可成り古く、かつては頭に毛のない大本教信者で、鎮魂帰神や神がかりに熱中したものだ。大本教不評以来、宗旨を更めて天理教に凝り出し、芸名も伊藤天拝と改めたが、近頃は宗旨をまた更めて、性欲研究に凝り出し、誰やらの青い燕となり、恋の手習ひをもぢつて伊藤いろはと改名しける。

 とある。昭和に入り歿した模様。

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