女学校の先生から浪花節へ・桃中軒不知火

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女学校の先生から浪花節へ・桃中軒不知火

 人 物

 ・本 名 田中 薫骨?
 ・生没年 1882年2月25日~1920年代?
 ・出身地 福岡県 鎮西村

 来 歴

 桃中軒不知火は浪花節黎明期に活躍した浪曲師。元々は九州女学校の教師であり、かつ新聞記者もやっていたという変わり種。浪曲師というよりも雲右衛門の秘書・参謀役として活躍した。

 経歴は雑誌『浪花節倶樂部 雲』の中で語った「氣まぐれの記 筆者が浪花節前座たりし時代の経験感想」に詳しい。幸い日文研のサイトで読むことができる(55頁から)。

 その中の経歴を抜粋しよう。

 私が郷里なる福岡縣は石炭の産地として全國に名高い。幅岡縣の中でも特に病越、遠、較の三郡が其の主産地である。私は明治十五年二月廿五日を以て、嘉穂郡の鎮西村という一寒村に磔々の聲をあげた。歴史上 有名な名所舊跡もなく、これぞと云つて景勝風概の世に紹介すべきものもなく、偉人傑士と称すべき程の人物を出した事もない、不々凡々の一避邑鎮西村の大日寺には、從つて楽家農を以て構すべき程の大資産家はなかった。私の生家とても無論豪家でも豪農でもない、單に食ふに困らぬ程度の農家、別段に餘米を取らない代りに、借金をする程の窮乏も知らないと云った位のものではあった。でも土地では可なりの家柄と云ふ事と、黒父母君、父母君の何れるが比較的急空家を以て押されてゐた事とによつて、私等は幼少の時から多少他の尊敬を受けてみた。

 華族は5人で、不知火は次男であったらしい。

 代々の公共事業等に私財を擲ち力を盡した功労に仍つて、藩公より苗字帯刀を施された祖父君の時代から、 農家乍らも相當に除裕ある家庭に私は育てられた。母上は私が徴兵検査の済んだ後に、祖父君は数年前に、父上は明治四十三年一月に何れも病没された。兄弟は家督を相績でゐる一人の兄と、弟が二人、一人の姉は疼くより親成に嫁いである。今一人姉があつたが二十餘年前病没した。で今では五人兄弟の私は次男である。祖母君は八十歳に近い高齢で、未だ故郷に寂しさ條生を送ってあらることと思ふ。

 幼い頃から些か神経過敏で、人と反りが合わないところがあったという。友達と遊ぶよりも絵をかいたり笛を吹いて一人で楽しむような所があった。記憶力も良かったため、本や小説などもよく読み、これを記憶した。

 小学校時代に旅回りの祭文を聞いてその面白さに病みつきになったという。曰く、

斯かる家庭に育つた私が、幼少の頃から演藝上に趣味を持ち、多少其の方面に向つて器用であつたのも強ち無理ではあるまい。私は横笛を弄り、胡禁に歌つてゐた同じ七八歳の頃、祭交なるものを聞いた。天一坊の宅がおさん婆さんを殺害し、将軍家より下された設據の短刀とお塁附とを奪って逃げる所であったが、 私は其の時義太夫よりも何よりも天下祭文程面白い物はないと感じた。其の後或る雪の日學校を休んだ時、學校朋輩を成る家の一室にして、天一坊の一席を共の演じて一同に大喝采を博した事を覚えてゐる。今にして是れを思へば、後年浪花節なるものに憂き身をやつす私の運命が既に其の當時に於て暗示されてみた のかも知れない。天一坊を演じて私に多大の威典を與へた無名の一祭文語りは間接に私を騙って浪花節前座たらしむるに至つたとも云ひ得る。

 小学校では三等の優秀児童賞を贈られるほどの秀才であったというが、学校きらいは治らなかった。一応、両親の勧めで東筑中学(今の福岡県立東筑高等学校)に進学。しかし、家が衰退してお金に苦しんでいた事や当人が脳を患い寝込んだ事に伴い、数か月で退学。

私の家は私が小学校を卒業した頃既に稍衰運に傾きかけてゐたかと思はれる。それでも私は丁度其の頃創設された東筑中学といふのに入学したが僅かに二三ケ月の在学で退学の已むを得ざるに至った。というのは日頃余り強壮でなかつた私が痛く脳を病んだ為めであつた。私が病床の百余日は私の生涯に取つて少なからぬ打撃を与へた。

 回復後、「1年遅れてもやり直せ」と親から勧められたが嫌いな数学や英語をやる気がなく、さらに年下に交じって学問をするのには抵抗があり、「独学」で身をたてる事を決意。親の反対を押し切って外に出たという。

 当人は、「私は小学教育を卒へただけで、夫れ以上の秩序ある中等或は高等教育を受けた事がない。即ち学歴といふものがない。故に肩書もない。肩書は私の嫌ひなものゝ一つである。」と強く主張している。

 卒業後、独学や放浪を繰り返し、一定の学問や能力を身に着ける。その内、当時私立学校を経営していた釜瀬新平に拾われ、「私立九州女学校」の教師として採用される。

 しばらくここで教員として働いていたというのだから面白い。

 しかし、音楽で大成する夢断ちがたく、浪曲師になってしまった。『博多風土記』では、

 雲の臨終にはべった弟子の内に市内荒戸町私立九州女学校(校長釜瀬新平氏、現在の九州女子高等学校)の教員田中薫骨がいた。薫骨は学校の先生だったが、浪花節が飯より好きで、雲の中庄時代、前記のN師の紹介で雲に師事し、一両年後上京して大胆にも「田中不知火」の芸名で寄席の舞台に立ったが、失敗したので百八十度の方向転換を行ない、後に東京毎夕新聞社に入社したという。

 とあるが、当人の発言では、

私は私が會て執てみた中等學校の教鞭を擲って浪花節界に投じ、数年間を斯界程に没頭して過ごした経験がある。初め現內務省警保局長古賀醸造氏の紹介に依つて春日亭清吉の門に入り、次で早川辰燕に師事し、更に白浪庵溜天の宮崎氏が地方巡業に伴はれ、後一心亭辰雄の前座となり、更に桃中軒雲入道の当にじた。

 と、春日亭清吉や早川辰燕に師事した旨が記録されている。

 その後、雲右衛門から「桃中軒不知火」という号を許され、舞台に出るようになった。

 しかし芸はあまり上手くなかったそうで、雲右衛門の参謀役や台本・節の考案などをするアドバイサー的な地位にとどまった。

 1914年、 大川屋書店から出た『桃中軒雲右衛門一節集』の中に、「元祿の侠骨兒 村上喜劍諸國巡遊の一節」と題した速記が掲載されている。

 後年は浪曲から一線を退き、台本作家や記者として活躍した。「浪花節倶樂部」の発刊などに尽力を注ぐなど、浪花節の啓蒙に関与した。

 また、牛右衛門こと宮崎滔天とは雲右衛門を通して昵懇の仲だったそうで、書簡のやり取りもしている。

 最晩年は滔天と共に病身の雲右衛門を良くサポートし、雲右衛門の看護を良くしたという。

 1916年10月24日、雲右衛門に呼び出され、「遺言を書いてくれ」と頼まれる。雲右衛門は「葬儀を簡潔に」「雲右衛門の二代目を作るな」「講演集はよしなにやってくれ」「追悼公演不要」「借金の清算は申し訳ないが頼む」と五つの遺言を残した。

 1916年11月7日、雲右衛門死去。死ぬ当日は雲右衛門から頼まれて使いに出ていたが、その最中に雲右衛門の様態が急変。臨終の席には間に合わなかった。

 翌日のお通夜には列席し、粛々と恩師を見送ったという。

 八日夜のお通夜には軍隊から帰休した西岡稲太郎と養子の神谷音次郎の他は僅に峰田夫妻や不知火、猪股村雲、風右衛門……

 四十九日にも列席し、遺言を発表した。しかし、雲右衛門の遺志に反して、門下生は二代目を名のるようになってしまった。

 その後、不知火は記者として生活を送っていたようであるが、雲右衛門同様に肺結核を患い、仰臥。四十代になるかならないかで亡くなったという。正岡容は『日本浪曲史』の中で、

(病気の雲右衛門の近くに)常に病床に侍して、介抱して居た田中不知火氏が、後、同じ肺病で死んだのも、痛ましい事だった……

 と記している。

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