春日井派の統領・春日井文之助(二代目)

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春日井派の統領・春日井文之助(二代目)

 人 物

 ・本 名 山本外士
 ・生没年 1878年2月20日?~1914年8月1日
 ・出身地 ??

 来 歴

 二代目春日井文之助は浪花節黎明期に活躍した浪曲師。当時一大勢力であった春日井一門の大名跡である春日井文之助を襲名し、東京浪曲界で活躍したが志半ばで亡くなった。

 生年月日は『芸人名簿』から割り出した。ただし、墓碑録には「45歳没」とあるので、一年さばを読んでいるか、数え年の戒名である可能性が高い。

 経歴等は不明であるが、『雲右衛門以後』によると、風呂屋の倅だという。

 明治中期、浪曲界の大御所であった春日井文之助に弟子入りした模様。当初は「春日井若之助」といった。

 1899年3月、小吉から浪花亭駒子(一心亭辰雄)と共に深川八名亭に出演している。この頃、看板披露した模様か。

 当時は浪花亭駒吉率いる神田市場亭派に所属していたらしく、若干20歳にして駒吉や文之助、綱吉などといった大御所と共演している。

 天才浪曲師的な扱いを受け、中でも「綱七の腹切り」と呼ばれる一段は十八番で大いに受けたそうな。

 当時の香盤を見ると、駒子とお神酒徳利のように扱われている。1904年に駒子が一心亭辰雄に改名した際も、若之助は賛助として出演している。

 また辰雄が伊藤痴遊と共に浪曲界へ反旗を翻した際、これに同行していたらしく二人はなかなかの関係だった模様。そのくせ一心亭辰雄の一代記『浪花節一代』には若之助のわの字も出てこない。

 後年、春日井文之助が「春日井松月」と改名して桃中軒雲右衛門の三味線方に転じたために、文之助の名跡が空いた。

 1908年頃、文之助を襲名。しかし、襲名したもののパッとせず、更に病気になってしまった事もあって、不遇をかこつようになった。

 その不遇を救ってくれたのが出世した一心亭辰雄で、文之助を一座の座員兼事務員として雇い、給金を与えて生活を支えてやっていた。

 大正に入ると胃癌を患い、浪曲の舞台にも立てなくなってしまったという。

 その惨状を知った一心亭辰雄は、巡業先の仕事をキャンセルしてまでも東京に戻り、文之助のために慈善公演を打ってあげたという。

『二六夕刊』(1914年7月28日号)に、

◇若之助時代には斯界の花形として並びなき人気を担ひし二代目春日井文之助、 近頃、胃ガンを病んで経過思はしからず、或は評判の「網七」も再び聴事を得ざる可しといふ。されば、今春来、阪神地より転じて東北を巡業中なりし一心亭辰雄は、永く座員兼事務員として使用せし関係より急かに帰京する事となり、廿七、八両夜、馬喰町の常盤亭に於て右薬餌料寄附の目的の下に独演会を催し、重ねて地方へ赴く可しと。 半歳振の帰京とて、辰雄狂は大悦びなるべく……

 しかし、その時には既に文之助の病気は既に末期を過ぎており、公演から数日後息を引き取った。

 芝清之は『浪曲人物史』の中で、今戸潮江院にある春日井文之助の墓を紹介し、「初代か二代目かわからない」と記しているが、これは多分二代目だと思われる。

 師匠である松月の本名は「高橋庄之助」といった。

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