講談上がりの旭堂麟生

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講談上がりの旭堂麟生

 人 物

 旭堂あさひどう 麟生りんしょう
 ・本 名 清 與十郎
 ・生没年 1852年3月2日~1940年前半
 ・出身地 ??

 来 歴

 旭堂麟生は浪花節黎明期から大正時代にかけて活躍した浪曲・講談師。講談出身にもかかわらず、浪曲師と仲が良く、浪曲師と交わって浪曲の席に出ていたという奇人であった。生涯ほとんど売れなかったが、彼が手ほどきした若者から富士月子、二代目廣澤虎造が出ている。

 生年月日と本名は『芸人名簿』から割り出した。

 経歴は不明であるが、幕末の名人と呼ばれた「旭堂南麟」の弟子らしい。

 この南麟は元々御家人の倅であったが、放蕩の末に田辺南鶴に入門し、講談師となる。御家人の出身故にプライドが高く「大南麟」と自称する程であったが、品格のある講談を得意とし、お家騒動を読ませると天下一品であったという。

 多くの弟子を取り、旭堂一門を築いた。現在の「旭堂一門」も元を辿ればこの人に通じるはずである。

 1878年に72歳で死去しているが、その時には相当の門弟がいたという。

 この晩年に弟子入りしたのが鱗生らしく、厳しい修業に耐え抜いて明治時代には既に一枚看板となっていた。

 しかし、吉川綱治という(本名・清すゑ。1871年6月3日~)娘浪曲師をめとった関係からか、1896年頃より綱治を伴って、浪曲の席に出てくるようになった。

 当時浪曲師を嫌い抜いていた講談師からすればこの行動は異常以外の何物でもなかったらしく、あわれ麟生は事実上の追放を受けた。

 しかし、綱治の人気がとみに上るにしたがって自身の仕事も増え、綱治と仲良く浪曲の寄席を回っていた。

 また、講談出身という事もあって、ネタが豊富。多くの浪曲師が出入りしたという。

 もっとも、麟生が浪曲をやったかどうか判然としない。講談と浪曲を合わせたような芸だったというが――謎は残る。

 1914年頃、北海道から来た飯田ハルという少女の世話をした。この少女にネタを仕込み、芸のイロハを教えた。この少女こそ、後年関西浪曲の女王として君臨した富士月子である。

 友人であった梅中軒鶯童は『浪曲旅芸人』の中で、

富士月子――出生は富山県、北海道に流転して関田老人を後見人に得たのを機会に東京へ押上り、富士呑海に芸名を貰って月子と名乗ったと聞いたが、芸の道は主として講談の旭堂麟生師の教えをうけた。この人も程なく後見人の関田さんと離れて、松島の広沢吾楼(飯田五郎)氏と結婚し、飯田氏が支配人として采配よろしく順風に帆を上げた。

 と、麟生との関係を触れている。

 その富士月子が、1917年頃に、金田信一という少年を連れてきた。間もなく月子は大阪へ行き、信一少年が代わりにネタを習いに来るようになった。

 この信一少年こそ浪曲界の大スター・二代目広沢虎造である。虎造は鱗生にネタを貰っていたおかげで、大阪でいじめられず、色々と助かったと聞く。

 前座時代からの友人・梅中軒鶯童は『浪曲旅芸人』で、

「東京からわざわざ大阪へ弟子に来るなんて、なんでや」
「いまこちらへ来ている富士月子さんと心安いもんですからお世話になりまして」
「ふむ、月子さん知ってたんか」
「東京で旭堂麟生さんの所へ、お互いにタネを貰いにいってたもんですから」
 こんな応対があって、雑用宿の泉さんの家の一番奥の端、便所のすぐ前の糞臭こもる下郎部屋で枕を並べた。

 という会話をした事を記している。

 この信一少年も大阪へ行き、鱗生は東京で細々と活躍していた。しかし、大スター二人の面倒を見たのだから、芸人冥利に尽きたのではないか。

 1922年夏、高座で問題発言をし、警察にしょっ引かれた。散々油を絞られ、営業禁止を受けてしまった。『国民新聞』(1922年7月27日)に、

浪花節の席に出て居た旭堂麟生と云ふ老講談師、此程、浅草の某席で年甲斐もなく、甚だ怪しからぬことを口にした廉で、遂に営業禁止を命ぜられた。 演芸者として斯る厳しい処罰を受けたのは是が初めてである。

 と記されている。この一件があったこと、当人が老齢だった事もあって、その後の消息不明。引退した模様か。

 芝清之『浪曲人物史』によると「九十九才まで生きて戦争中亡くなった」という。ただし上の生年と100歳の年のつじつまが合わない。実際はもっと年上か、当人が誇張して「九十九歳」といっていたのが通説になってしまったか。

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