インテリ浪曲・末廣亭辰丸(二代目)

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インテリ浪曲・末廣亭辰丸(二代目)

 人 物

 ・本 名 福島 福太郎
 ・生没年 1877年~1908年9月12日
 ・出身地 石川県 金沢市

 来 歴

 末廣亭辰丸は浪曲黎明期に活躍した浪曲師。卑俗な浪曲が多い中で文学的なネタや話を勤め、「インテリ浪曲」というような評価を得たが、志半ばで夭折した。

 前歴は、1907年に発行された『文芸倶楽部』の「芸人出世譚」に詳しく出ている。以下はその引用。

◎私は石川県金沢市仲ノ町の出生で、本名は福島福太郎と申します。是れでも以前は学生で…………学生が浪花節になると云ふのは、如何にも可笑しいですが、其処には種々お話があるのです。
◎恰好十八歳の時でした。修学の目的で名古屋の知人を頼って行ったのです。それは其人が私の一身を引受けて、修業させて呉れることになつて居たのですから、然る処肝腎力と頼む其人が、事情があって居ないので、私は失望落胆して暫く名古屋に足を留めて居りました。
◎一夜退屈なので、不図富本と云ふ寄席へ行くと、恰度其時東京から講談師の伯知氏が来て、出席て居ましたが、聴いて見ると其講談が非常に面白かったので、今云ふ通り一方で失望して居る矢先ですから斯う考へたのです。
◎学問をしたいにも、肝腎先に立つ学資はなし、と云つても独学と云ふのは容易なことではない……又それでは到底充分なことは覚束ないから、是れは寧そ其方を断念して、講談師になって芸人生活をして見やうか、何に成って終るのも一生だ、結句其方が愉快かも知れない、成らうと云ふ気で一心に勉強したら、多少人に知られるやうに成れぬことはあるまい、と思ひは思ったものゝさて決心し兼ねたのです。
◎其後今度は又浪花節の寄席に行って、浪花家辰之助と云ふ人の浪花節を聴いて見たのです、スルト自分が今日其業になるくらゐですから、それが非常に趣味深く感じて、面白くつて堪らない
◎乃で毎晩続けて行って聴けば聴く程益々面白くなつたので、是れは寧そのこと、浪花節に成らうと、愈々決心の臍を固めましたが、併し在来の浪花節は節言葉も野卑で、総べてが下品の上、演題は何れも昔の古臭い黴の生えたものばかりで、少しも新らしい所がないのです。
◎ですから私は是れを改良して、総べてをもう少し優美に、演題も成るべく新らしい、時事若しくは文士方の小説などを撰んで、一つ演つて見やうと考へたのです。

 その後、人を頼って名古屋の浪花節語り、樋口一に師事をして、浪曲のコツを教わった。それから独立して、「時世新談浪花節・樋口義之助」としてデビューし、地方回りを行うようになった。

 新聞ネタなどを元に浪曲を拵え、一部では人気を博したが、如何せん風当たりは強く、旅の疲れもあってかこの頃より体を病むようになる。

 23歳の時、横浜へ上り、興行を打つも体調を崩して死にかける。あわやという時に神田にあった浪曲寄席、「市場亭」の主人に助けられ、世話をしてもらった。

 市場亭の紹介で上京し、初代末廣亭辰丸の門下に入る。そこで「小辰丸」の名を貰い、東京の寄席に出るようになった。

 この頃からめきめきと売り出し、「インテリ浪曲」として人気を集める。尾崎紅葉『金色夜叉』、泉鏡花『滝の白糸』などを読んでいたというのだから文芸浪曲の元祖である。もっとも、尾崎も泉も浪花節嫌いであったため、当然無断上演である。無茶苦茶と言えば無茶苦茶もいい所。

 1906年、『花競浪花節』を発行し、「三人書生」の速記を出している。

 1906年10月、師匠の辰丸が「末廣亭清風」と改名し、一線を退いたのを機に(新宿末廣亭の前身、末廣亭の経営に尽力を注いだ)、「二代目末廣亭辰丸」を襲名。当時のお歴々を並べて華々しく襲名披露を行った。

 襲名直後の1907年、出張録音に来たビクターとコロムビアにスカウトされ、それぞれレコードを吹き込んだ。当時はまだ片面盤の時代。音質もよくない中で、吹込みを行った。浪曲師の中では一番死亡年が早い人の(逆に言えば録音としては最古)記録として残っている。

ビクターからは『新生涯』『三人書生』『橘英男』『西郷南洲』。コロムビアからは『三人書生』『金色夜叉』。これらは全て日文研で聴くことができる。サビのあるいい声である。

 インテリで新しい浪曲が売りで、声もよかったそうであるが、身振り手振りが多いのが弱点だったそうで、『天鼓』(1906年2月号)の中で、

▲末廣亭辰丸 看板ほどのものには非ざれど言ふ事に誤り少きに徹すれば先づ浪花節中にての物知りか、身振が目障り也。

 と書かれている。

 その後も第一線で新しい浪曲の模索を続けていたが、肺を患い寝込むようになった。1908年春に、弟弟子が小辰丸を襲名した際に列席したのが最後の舞台か。

 1908年9月19日、肺病のため、31歳の若さで死去。人気者だった事もあってか訃報が出て居る。『万朝報』(1908年9月22日号)には、

◇末広亭二代辰丸事福島信太郎 (三十一)は永らく肺患に罹り静養中なりしも薬石効なく、去十九日午後八時死去したり。加州金沢の産にして、最初は樋口一の門弟なりしも、後、末広亭辰丸(今の清風)の門に入り辰丸の二代目を襲ぎ、大音と芸才に富み将来有望の若真打なりしも、不幸に不幸が重なり、充分に芸才を発展する事を得ずして逝きたるは惜しむべし。 彼の得意の読物は「三人書生」「石田三成」等なりしが、常に文学的の作物を読みこなさんと努力し、「金色夜叉」や「不如帰」等を研究したる勇気と着眼とは確かに鶏群の一鶴たる観ありしなり。 昨日午後一時両国回向院に葬る。

 とあり、『都新聞』(1908年9月23日号)には

◇加州金沢から出て浪花節社会に入り、 樋口一、末広亭辰丸などの門下で修業をした末、遂に二代目の辰丸となった福島信太郎 (三十一)は去十九日肺病で黄泉へ出稼ぎ、一昨日その遺骨を両国回向院に葬った。此の男は浪花節の中でも毛色の異った新派で、読物も明治式の小説であった。記者が同人と遇ったのは一昨年の冬、蛎殻町の浪花節会に真を勤めてゐた時で、私の語物は文学的批評眼からみてどの位値打があるか、先生方の厳正なる御批評を仰ぎたいつもりで御招待申したので、といふイヤに気取った口上であった。聞いてゐると可なりの美音であるが、文字のなき悲しさには間違が多い。酔歩蹣跚といふのをマンサクといふ始末に呆れはてて、「万作の捻れる秋に村雀まはらぬ舌の耳にたつ丸」と出鱈目をつらねてからかったら、流石に凹たれて、大いに勉強しますと頭をかいた。それがさすが一つの刺撃となった訳ではあるまいが、以後漸々修業が積み、間違いも少くなって前途有望と思はれたのに、鳴呼惜しい事をした。 (一記者)

 とある。都新聞は煽りがある気がする。

 その後、辰丸の名前は身内の弟子が継承し、三代目辰丸となった。

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