奇人変人名番頭? 富士呑海

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奇人変人名番頭? 富士呑海

 人 物

 富士ふじ 呑海どんかい
 ・本 名 山神 光之
 ・生没年 1890年5月6日~戦後
 ・出身地 東京?

 来 歴

 富士呑海は戦前戦後活躍した浪曲師。浪曲はうまかったらしいが、芸以上に奇人変人、それに浪曲師たちの顔役や興行師としての手腕を発揮して名を残した。

 前身は、地方回りの旅役者で女形をやっていた――と、面識のあった吉野夫二郎が『浪曲人綺談』に記しているが本当であろうか。顔は薄黒く、背中が少し曲がっており(その関係でせむしの呑海とあだ名された)、態度がデカいために、ヤーさんや山賊に間違えられたこともある。

『浪曲系図』などを見ると、師匠は女流浪曲で知られた吉川小福であるという。前名は吉川小福円と名乗っていた。

 吉川小福円時代からそこそこ人気があったそうで、マイナーレコード会社吹込みという条件こそあれ、『有馬猫』『寛永三馬術』などを吹き込んでいる。当初は関東節を中心にやっていたが、多くの一座に出入りをして他流試合を見物し、関西節や中京節まで唸れるほどの芸達者になった。

 その関係か、独立独歩の人と思われて居た節もあったとか。

 後年、富士呑海と改名。当時、浅草で売り出していたテキ屋の山田春雄を兄貴分と立て、颯爽と売出した。

 明治末、北海道から浪曲を修業しに来た飯田ハルなる少女をあれこれ面倒見たそうである。飯田ハルは後年「富士月子」と名乗り、女流浪曲の女王として君臨。その人気を受けてか、「富士月子の富士は俺の富士をやった」とうそぶいていたという。

 もっともこれは半分事実らしく、富士月子と鎬を削った盟友の梅中軒鶯童などは「富士呑海に芸名を貰って月子と名乗ったと聞いたが、芸の道は主として講談の旭堂麟生師の教えをうけた。」みたいなことを自伝に書いている。

 山田春雄の関係から浪曲興行にも手を出し、多くの若者や浪曲師を囲った。面倒見もよく、自宅に関係者を寝泊まりさせるなど、一種の顔役であったらしい。隅田梅若、二代目鹿島秀月などはこの呑海の手によって売り出されたり、入門先を斡旋してもらっている。

 戦前は文芸浪曲で人気を集めていた林伯猿の番頭をやっていて、伯猿の売り出しに尽力を注いだという。

 後年、独立をして芸能社を立てるが、看板芸人が隅田梅若しかいないという変な会社であったという。そのくせ、頼まれれば、何でも仕事を引き受け、キチンと相手の要望通りの芸人を派遣したというのだからおかしい。

『浪曲ファン』(62号)の吉野夫二郎『浪曲人綺談』によると、芸能社の経営者のくせに一切計算が出来ず、悪い社員や関係者のカモにされていたという。しかし、呑海は一切こたえることなく、「まあいいやな」という精神でやっていたというのだからこれもいい加減な話である。

 一方、売り出し前の若手や関係者には優しく、金のない若手や関係者「まあ泊まっていけ」と事務所に出入りさせたり(雑魚寝であったそうだが、住居代わりとしてタダ同然貸してくれたという)、ネタをつけたり、と親切な人物であったという。

 こうした所も、奇人変人ながら慕われた由縁ではないだろうか。

 もっとも、ネタを教えるといっても、殆んど中身はないそうで、隅田梅若が「おじさんネタをつけてくれ」と言って、紙とペンを持って呑海のネタを見せてもらったが、「そこに刀がほとばしる!ヤッー!切られた!」などと、誰が何をしているのかさっぱりわからず、ただ呑海の話術と気迫でネタを見せていただけ、という笑い話がある。

 しかし、何もないことを恰も奥行きがあるように見せることが出来ただけでも相当の実力者だったのではないだろうか。

 空襲などから生き延びて、戦後もしばらくは健在だったらしいが、復興する前に亡くなったらしい。『浪曲ファン』(62号)の『浪曲人綺談』によると、

三月十日の空襲の翌日、そうとは知らず上京した僕は、焼け跡の親戚を探しに梅若を連れて言問通りを行ったら、入谷車庫前に火事伴天に防空頭巾、ステッキを突いて呆然と立ってる呑海に逢った。”オイどうしたい”と言うとニコリともせず”もう東京はいけねえや”と一言、淋し気な姿だったが、それが彼との別れだった。永住町の侘住居で死んだと聞いた。

 とある。最後は山田春雄の子分だった小政なる男が臨終を見届け、葬儀を出したというのだから、ちょっとした美談ではないか。

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