節真似の名人・木村富士衛

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節真似の名人・木村富士衛

 人 物

 木村きむら 富士衛ふじえ

 ・本 名 高梨 宗次
 ・生没年 1912年頃~1960年7月12日
 ・出身地
 千葉県 勝浦市

 来 歴

 木村富士衛は戦前戦後活躍した浪曲師。木村友衛の弟子で関東節を得意としたが、大看板にはなり切れなかった。余芸に節真似があったが、これが表看板になったという稀有な人物であった。

 出身は勝浦。実家は魚屋であったという。勝浦に浪曲師が多く来た事や、親も浪曲好きだったこともあって、幼い頃から浪曲に親しんで育った。

 小学校卒業後、単身上京をして当時売り出しの木村友衛の弟子になる。時に1924年5月。

 木村友衛の友衛から名前を貰い、「友衛丸」と名乗る。師匠について寄席や劇場を回った。

 1928年11月、一本立ちをして「木村富士衛」と改名する。師匠譲りの関東節と達者さで売り出した。ただ、どこまでも友衛のミニチュアという弊もつきまとったようである。

 1932年11月30日、JOAKの放送「物真似の夕」に出演。綾太郎、重友、虎造、篠田実、虎丸の節真似を披露している。共演は、橘家勝太郎、鈴々舎馬風、古川ロッパ、江戸家猫八、柳亭春楽という物真似オールスターズ。当日の『読売新聞』の紹介には、

◇木村富士衛――木村友衛の弟子で當年十九歳、最近看板披露をした若手だが、いろ/\の節真似のヴァラエティを持ってゐる。

 1933年6月、リーガルより「(浪花節節眞似) 廣澤虎造、浪花亭綾太郎、木村重友、鼈甲齋虎丸」 を吹き込み。日文研で聴ける。

 他にも『幡随院長兵衛』『一心多助』『新門辰五郎』など数作吹き込んでいる。小粒であるが下手ではない。

 1934年8月8日、JOAKに出演。「物真似吹寄せ」を披露。共演は落語物真似の鈴々舎馬風。

 1940年6月23日、JOAKの「新進演芸の午後」に出演し、『天保水滸伝より岩松御用』を口演。

 せっかくの腕前を持ちながら、結局大成することなく中堅で終わってしまったのは残念であった。節真似に特化するにも、前田勝之助や出雲友衛の人気には勝てず、中途半端な立ち位置になったのも大きい要因だろう。

 1960年7月12日、48歳の若さで死去。墓は府中市の立正佼成霊園にあるという。

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