二代目虎丸の息子・鼈甲斎鶴丈

浪曲ブラブラ

[random_button label=”他の「ハナシ」を探す” size=”l” color=”indigo”]

二代目虎丸の息子・鼈甲斎鶴丈

 人 物

 鼈甲斎べっこうさい 鶴丈かくじょう
 ・本 名 森 正美
 ・生没年 1892年8月15日~1949年11月7日
 ・出身地 東京

 来 歴

 浪曲黎明期に活躍した二代目鼈甲斎虎丸の実の息子。品もあり、顔もよく、芸もうまかったが、なぜか人気のない――という不思議な芸人であった。

 誕生日は『芸人名簿』より求めた。ただし、名簿には「鼈甲斎鶴城 森 正美(明治二八、八、一五)」とあり、墓碑の享年と行き違いが発生している。ここでは享年換算とした。

 虎丸には12人の子どもがあり、朝起きると虎丸は子供を並ばせて「1、2……11、12……ああ、全員いる」と言って安堵するのを日課としていたというのだからおかしい。

 妹の小とら(これが本名)は後に父の曲師となって活躍している。

 父の虎丸は「芸人稼業は一代限り」と決めていたそうで、倅の正美を出世させるべく、厳しく育て、郁文館中学へと入学させた。

 当人も浪曲には特に興味を示さず、中学に通っていたが、ある夏休みの事。父の兄弟分であった東家三叟(楽遊)の所に遊びに行くと、幼友達の東家楽燕が浪曲の面白さをこんこんと説いてしまった。

 楽燕の言葉に感銘を受けた正美は、中学校をやめて東家楽燕の家で浪曲修行を行うようになってしまった。これを知った虎丸はあきれ果てたが、後の祭り。「それならいっそ」と楽燕の元に預けて、立派な浪曲師になるように仕込んだという。

 これは『読売新聞』(1929年6月18日号)で語れている逸話である。証拠を兼ねて引用しよう。

 蛙の子は蛙の子で矢張り浪花節へ 楽燕を羨ましがつて中学生を止めた鶴丈
 今晩の浪花節は鼈甲斎鶴丈が水戸黄門記の内「佐見川の渡し」を一席語る、当代の名人と言はれてゐる二代目虎丸事鶴堂を父に持ち
 ◇……天性の美麗なる節調は鶴丈の看板を大をなさしめてゐる。鶴丈が浪界の人になつた動機にも亦次のやうな面白い話がある。父の鶴堂が鶴丈を郁文館中学に入れ、芸人稼業は自分一代きり、倅は芸人に仕立てまいと固い決心をしてゐた、鶴丈が学校の暑中休暇のある一日、父が義兄弟の約を結んでゐた東家三叟の倅の所へ遊びに行ったものだ、その倅といふのは今の楽燕、三叟も鶴堂のやうに
 ◇……芸人は一代きりと楽燕を海城中学へ入学させて居つたが「親の心、子知らず」で楽燕もその頃は学校へ通ふ傍ら席へ出ては浪花節を語つてゐた、この所へヒヨイと友達の鶴丈が遊びに来たのだからたまらない、楽燕に浪花節語りも面白いよといふやうな話に花が咲き、鶴丈もそれぢや俺も一つと浪花節道を志した
 ◇……親父の鶴堂余程経つてから倅が浪花節語りになつてゐることを知つて眼を白黒させたが後の祭り、それぢやといふので手許に置く譯にも行かず楽燕の許へ虎若丸という芸名で門下生として修業させ、十九歳の春千代田鶴城と名乗って
 ◇……真打となつた、現在の鼈甲斎鶴丈の芸名はニ三年前改名した芸名である、AKではけふが晴れの放送である

 父の虎丸は節が下手だったこともあり、鶴丈はどちらかといえば東家の系統の節を継承したという。

 二代目虎丸が全盛だった時分に入門した事もあってか、多くの関係者に可愛がられ、ネタを譲られた。そのネタ数は浪曲界随一であったという。

 19歳の時、浅草恵比寿亭で看板披露。一本立ちをした――というが、広告が見当たらない。

 1909年3月、父が弟子の吉右衛門に「虎丸」の名を禅譲。自身は「鶴堂」と改名した。この前後で、「鼈甲斎鶴城」と改名した模様か。

 その後は、主に父と三代目の公演を中心に、相変わらず寄席で相応の人気を集めていた。芸はうまいが、なぜか高い人気がなく、父や三代目虎丸と比較されてばかりいたという点ではちょっとかわいそうな人物である。

 美男子で好人物であった事から、千葉の芸者と仲良くなり、結婚。

 大正時代の一時期、浪曲界から足を洗って芸者屋を経営していたことがあるという。

『都新聞』(1920年5月30日号)の「浪界での子福者は」の中に、

 長男は鶴城といつて、さきに浅草の恵比寿亭で真打披露をした若手の売出しだが、男振がいゝので千葉の芸者に思はれ、その家へ入婿となつて、今では浪花節を廃業し、長火鉢の向ふに納まって芸者屋の兄さんに化けている。

 とある。

 しかし、関東大震災やらなんやらで芸妓屋が行き詰ったらしく、浪曲界復帰を模索。妻を再び芸者に出して、自身は「江戸前天明」という芸名で復帰をした。ただ、余りにも変な芸名のせいもあってか、すぐに「鶴城」に戻した模様。

 1929年6月18日、JOBKに出演し、全国放送で『水戸黄門記』を放送している。

 1930年3月19日、JOAKに出演し『陸奥義人伝』を放送。

 1930年頃、名古屋のツルレコードから『大瀬半五郎』を吹き込んでいる。音質は悪いが、数少なく彼の芸を偲べる。普通に上手い。日文研で聞けます。

 1931年4月20日、JOAKに出演し、『忠僕半助』を放送。

 1931年9月11日、JOAKに出演し『伊達騒動』を放送。

 1933年2月11日、JOAKに出演し『武蔵坊』を放送。

 1934年3月12日、JOAKに出演し『竹川森太郎』を放送。

 1935年12月15日、JOAKの「浪花節の午後・義士伝」に参加し、『大石瀬左衛門』を放送。共演者は京山福造、木村忠衛、吉田日の丸、東家鶴燕。

 この頃、倅の一人を浪曲師にしたて「鼈甲斎若丸」という少年浪曲師として売り込んだ。この子は後に春日清鶴に預けられ、「春日豆清鶴」と名乗った。

 昭和以降は寄席や中劇場で活躍。芸もあり、啖呵もうまく、相応に人気もあったがなぜか売れなかった。不思議な人である。余りにも父の威光が強すぎたのだろうか。

 1945年10月13日、父の虎丸死去。戦後の貧しい中で葬儀を上げて、墨田区の実相寺に骨を納めた。

 しかし、この頃から既に病み始めたようで舞台に出る事は少なくなった。

 父の三回忌を終えた直後の1949年に57歳で死去。父と同じ実相寺に葬られた。

[random_button label=”他の「ハナシ」を探す” size=”l” color=”indigo”]

コメント

タイトルとURLをコピーしました