僧侶になった浪曲師・天光軒満月(二代目)

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僧侶になった浪曲師・天光軒満月(二代目)

 人 物

 天光軒てんこうけん 満月まんげつ(二代目)
 ・本 名 渡辺 敬治
 ・生没年 1906年7月18日~1970年6月21日
 ・出身地 岡山県

 来 歴

 二代目天光軒満月は戦前戦後活躍した浪曲師。並みいる天光軒一門の先輩を抑え、二代目満月を襲名したが、戦後廃業。晩年は僧侶になって仏道修行に励んだという変わり種であった。

 出身は岡山だという。ただ、経歴には謎が残る。遺族はいるそうであるが詳しく残されていない。

 16歳で文芸浪曲で売っていた酒井雲に弟子入りしたが、ワケあって17歳の折、初代満月の門下に移籍。満月に気に入られ、小満月と命名された。

 その後、満月について修業を積んだ。師匠譲りの悲哀物や文芸物を手掛け、師匠そっくりの美声を一ひねりした独特の節で人気を集めたという。

 1936年、師匠の満月が公演中に卒倒。病気で浪曲が語れない体になってしまい、一線から退く羽目になった(それでも時折舞台には出ていた)。

 弟弟子の菊月と共に二代目の候補にあげられ、幹部や贔屓の相談の末、2代目満月を譲渡された。

 しかし、師匠の満月は病中にこそあれ健在であり、時折「全快興行」と称して舞台に出ていた事もあってか(しかしかつての美声は薄れ、一本調子の節になった上に、記憶障害のために舞台で絶句する等悲惨な状態であったという)、事実上二人満月という状態になってしまい、割を食う羽目になった。

 1942年6月13日、NHK大阪より『嵐の中の孤児』を放送。

 敗戦後は得意の演目の多くが封じられた上に、色々と無常を感じる所があったそうで出家を決意。

 1956年、弟弟子の菊月を三代目と指名した上で引退をし、浪曲界を去った。

 その後は、仏道修行の道に入り、剃髪。「渡辺紫雲」と号し、一心に仏道修行を納めた。

 その甲斐あってか、奈良県平群町にあった大日苑なる寺の管理を任されるまでに至り、最終的には大僧正まで上り詰めたという。「大僧正紫雲大和和尚」という長ったらしい名前を持っていたというのだから大したもの。

 1970年6月21日、大阪医科大学附属病院に於て肝硬変のため死去。64歳。位牌は大日苑に納められていたというが――

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