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襲名披露はした雲右衛門・桃中軒雲州
人 物
桃中軒 雲州
・本 名 永山 吉次郎
・生没年 1898年1月1日~1950年以降
・出身地 ??
来 歴
二代目雲右衛門こと桃中軒雲洲は、戦前活躍した浪曲師。元々は雲州と名乗り、雲右衛門の末弟子であった。雲右衛門亡き後、浪曲界の幹部となった楽燕や重友などから公認を受け、二代目雲右衛門を襲名。数多く存在した二代目雲右衛門の中では一番待遇に恵まれた人物であった。
前歴は不明。幼い頃から浪曲が好きだったらしく、子飼いの浪曲師として雲右衛門に育てられた。『読売新聞』(1921年1月30日号)に、
◇雲右衛門 まだ廿五歳の若者である雲州は今度二代目桃中軒雲右衛門となつた……
とあり、『読売新聞』(1925年12月28日号)に、
その雲右衛門の名跡を誰が継ぐかは当時非常に興味ある問題とされてゐたが白羽の矢は遂に雲州といふ白面の一浪曲家に立ち其の襲名披露の興行が浅草で華々しく催されたのは数年前の事でまだ世人の記憶に新な事であらう。そしてそれは楽燕はもとより虎丸、重友ら有力者の推薦興行だつたのだから雲州君に取っては先づ浪界最大の名誉を克ら得た訳である。二代目桃中軒雲右衛門は初代雲右衛門の子飼ひからの弟子で、如雲、雲月、雲左衛門君達とは相弟子語り口は師匠其の儘と云はれてゐる。初代雲右衛門一まきに多士済済、実弟の桃中軒風右衛門君はもとより養子の桃中軒友右衛門君、準養子の楽燕君達が大事な師の名跡を若い雲州君に継がせて守り立ててゐる事は
楽燕君が初代雲右衛門師の葬式万端を一手に引受けた事と共に浪界佳話の双璧とされてゐる
とある。
雲右衛門が亡くなった時はまだ20になるかならないかであったという。『芸人名簿』には、「桃中軒雲洲 明治31年1月1日生れ」とある。上の読売新聞の記載と比べると年が下だが、数え年換算なのだろうか。
雲右衛門門弟の中では愛想が良く、師匠思いで晩年の師匠の面倒を見たことや葬儀に関与したことから元養子で当時人気絶頂にあった東家楽燕、鼈甲斎虎丸の引き立てを受けて二代目雲右衛門襲名を許される。
1921年1月22日より、新富座で二代目襲名披露公演を実施。
1921年6月19日より、浅草御国座で改めて襲名披露浪曲大会。楽燕、虎丸が口上に並び、浪花亭峰吉、〆友、東家楽遊、天中軒雲月、桃中軒白雲が列席。
一方、雲右衛門の実子・稲太郎を取り込んで二代目雲右衛門を許されたと自称する桃中軒雲太郎は、雲州が桃中軒雲右衛門の弟であった風右衛門の未亡人に取り入り、婚姻関係を結ぶことで雲右衛門の親類分という地位を得て、雲右衛門を襲名したと主張。
風右衛門の未亡人の意向で襲名し、一子・稲太郎を邪険にする雲州の態度を『新世界』(1921年4月8日号)の中で切り捨てている。
……目下東京で二代目を名乗って居りますのは故初代雲右衛門の実弟である、此の男は故風右衛門の未亡人に関係してゐるので風右衛門の未亡人と初代雲右衛門とは戸籍面に於て
◇夫婦の様になつてゐたため未亡人は飽くまでも宗家を主張してゐる実子の稲太郎さんなぞは除け者にして居るのであります、こんな関係から雲州に二代目を襲名さした次第ですが是れに対しては我々一門も許し難き事ですが遺憾乍ら是れに対しては法律を加へる事が出来ません……
また、『都新聞』(1920年2月24日号)の中で、雲州の存在を、
◇近頃、九州各地の一流の劇場に二代目雲右衛門と名乗って、朝野の名士四十何名の後援を辻ビラに謳って、一夜に千円内外の金を揚げてあるいてゐる二十五、六歳の浪花節語りがある。到る所の新聞でも二代目雲右衛門で承認して、かなりの提灯を持ってゐるので、お蔭とハヅレが無いらしい。その二代目と称する青年は、没き雲の亡弟、風右衛門の後家と恋になって桃中軒の系図に割込んだ雲州のことである。伝統のやかましい芝居やその他の芸界の出来事であったら、 此の二代目が開盛座で興行した時に最っと騒いだらうが、浪界はそこへ行くとのんきな処がある。殊に、本物の雲右衛門がかつては十年も住居してゐた博多の本場で、雲州の二代目が満員の客を呼んだなぞは何たる皮肉だらう。桃中軒正統の門人に師匠のことを忘れぬ忠義者はないのかと、遠い博多から憤慨して来た者もあるが、雲の実子、西岡稻太郎だって、あの態では、どうもかうも為やうがないだらう。 これから思うと、桃中軒雲右衛門武力と名乗った男の方が愛嬌がある。
もっとも当の雲右衛門は、死ぬ直前に稲太郎へ「二代目雲右衛門は作るべからず」と遺言しているので、そもそも雲右衛門の意向をガン無視しているのは紛れもない事実なのだが――
それでも楽燕・重友・虎丸という大幹部の推薦は、大きなものと見えて、建前上は二代目として迎えられる事となった。
1925年7月、アサヒレコードより『曾我の討入』を発売。
1925年12月、アサヒレコードより『大高源吾』を発売。
1925年12月28日、ラジオ初出演。JOAK(東京放送局)に出演し、「村上喜剣」を口演している。
1931年3月9日、仙台放送より「文久の夢」を口演している。
1933年、3ヶ月ほど満洲の皇軍慰問へ出発(読売新聞・5月19日号)。
1933年8月7日、帰国凱旋と称して東京放送より「空の進軍」を口演。これは1932年に空中戦を指揮して戦死した小谷大尉の悲劇と美談を語った者であった。
1934年6月22日、JOAKより「ある日の赤垣」を口演。
1934年9月12日、JOAKより「乃木将軍」を口演(全国中継)。
1935年9月10日、JOAKより「梶川の粗忽」を口演(全国中継)。
1938年1月18日、名古屋放送より「靖国神社の女神」を口演。
1938年7月5日、JOAKより「山鹿護送」を口演(全国中継)。この時、曲師を勤めたのは師匠・雲右衛門の姪にあたる岡本わか(風右衛門の娘)であった。
しかし、昭和に入っても雲右衛門襲名戦争は尾を引いたと見えて、1940年には兄弟子の白雲が「雲右衛門の名跡を返上する」と宣言。その際、雲州は廃業したとまで書き立てられている。以下は『都新聞』(1940年7月14日号)の記載。
その以前、今から十数年前に々雲右衛門門弟である雲州が、浅草御園座で、先代虎丸東家楽燕の口上で正式に雲右衛門を襲名し其後六七年打ってゐたが思はしくなかつたために廃業し帰国してしまった
とある。当然、人気こそ初代には劣らなかったが廃業はしていない。そもそも帰国とはどこに帰ったのか、判然としない。よく判らない記事である。
1950年、楽燕が亡くなった際にはまだ健在だったそうである。ただこの恩人の臨終には立ち会えなかったらしい。
その後、いつの間にか姿を消してしまった。
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