大和之丞の高弟・吉田奈良友

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大和之丞の高弟・吉田奈良友

 人 物

 吉田よしだ 奈良友ならとも
 ・本 名 大場 金太郎
 ・生没年 1891年3月15日~1930年代後半? 
 ・出身地 新潟県 吉井村

 来 歴

 吉田奈良友は戦前活躍した浪曲師。吉田奈良友の名前の通り、吉田奈良丸の門下生。三代目奈良丸候補の一人と目されるほどの芸達者であったが、師匠の二代目より先に旅立った。

 経歴は『浪花節名鑑』から割り出した。「吉田奈良友 大場金太郎、明治廿六年三月十五日生 新潟県佐波郡吉井村三瀬川」とある。弟も日月雲弘道という名前で浪曲師となっている。

 当時人気の頂点にあった二代目吉田奈良丸に入門し、「吉田奈良友」。師匠について歩き、芸を学んだ。そのせいか、他の吉田一門同様に奈良丸系の「忠臣蔵」を得意とした。一方で、「毒饅頭の清正」「天一坊」「先代萩」「乃木将軍」などといったネタも公演した。

 1920年代より、師匠奈良丸の関係から、浮世亭雲心坊と組んでいた事がある。雲心坊は後に独立し、浪曲物まねの大家となった。

 1927年9月、ツルレコードより「(琴入り浪花節)赤穗城血判取」を発売。

 1928年秋、ハワイの興行師・加藤重蔵と契約を結び、ハワイ公演が成立。10月20日、ハワイへ渡り、ハワイ公演を行った。座員は都和歌丸、吉田幸雲、三味線の吉田美千代の3人であった。

 当時、ハワイでも奈良丸節が受け入れられたこともあって、奈良友の節調は大いに受けた。各地で大当たりをとり、ハワイを二巡するほどであったという。

 1929年の新年はハワイの地で迎える事となった。

 1929年3月、師匠の吉田奈良丸は弟子の吉田一若に「三代目奈良丸」を名乗らせることを決意し、発表。名跡は吉田一若の手に渡る事となった。

 3月末、契約更新に合わせ、当時ハワイを巡演していた剣舞・演芸一座、河西正幸一行に参加し、特別ゲストとして共演をする事となる。1月ばかり、河西正幸たちと旅をしていた。

 5月、ハワイの興行師との契約を切れたのを機に、浪曲の吉川燕柳、講談の村井吉山と手を組んで、ユタ州に渡米。

 7月、ロサンゼルスへ渡り、ロサンゼルス周辺の日本人街を巡演している。

 8月18日、奈良友送別会がハワイ日本館で行われた。当時、偶然ハワイに来ていた桃中軒雲右衛門、東家若遊も加わり、ちょっとした名人会の風を見せた。

 8月20日、ピアス号に乗って帰国。帰ってきたとき、師匠は「吉田大和之丞」と名前が変わっていた。ある程度説明があったとはいえ、弟弟子に奈良丸襲名を抜かされた奈良友の心幾許なるか。

 1933年1月、ショーワレコードより「加藤清正の毒饅頭」を発売。他にも『小牧山合戦』『和久半太夫』『大高源吾』『義士両国勢揃』など、数枚レコード吹込み実績がある。

 その後、「吉田奈良友」の名跡を他人に譲り、自身は「春日野越後」と改名。改名理由はわからないが、奈良丸を継げなかったうらみでもあるのだろうか。

 1935年春、再びハワイ行の話が出て、女流浪曲の岡田千代子と共にハワイへ渡った。『日布時事』(1935年2月2日号)に

春日野越後は奈良友の改名にて八九年以前に当地に渡来した事あり其の際既に多数のファンを得てゐる一時は彼こそ二代目奈良丸になるとまで騒がれた程にて明治、大正年間に於ける師吉田奈良丸全盛当時を凌駕する位の美音、節調高尚優美な芸の持主である

 とある。この時の座員は、春日野越若、岡田千代子、三味線の春日野越若。後にハワイ二世の廣田貞子を飛び入りで座員に入れている。

 1935年6月、帰国。この時、浪曲師を志していたハワイ二世の廣田貞子を日本に連れて帰り、浪曲界への斡旋を行っている。後年、京山貞奴と改名した貞子は、奈良友の恩を述べていた。

 この巡業を機に、岡田千代子と恋が芽生え、二人は再婚。しばらく夫婦で稼いでいたらしい。

 その後はどうも新潟・佐渡周辺にいたらしいが、事情は不明。奈良友もまた夭折し、千代子は新潟に隠居した。

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