女流の芸豪・摂津弁天

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女流の芸豪・摂津弁天

 人 物

 摂津せっつ 弁天べんてん
 ・本 名 ??
 ・生没年 ??~戦後?
 ・出身地 香川県 丹生村

 来 歴

 摂津弁天は戦前戦後活躍した女流浪曲師。ムチャクチャ堅苦しい名前とは裏腹に、愛嬌と豪快さでドンドンと巻き込んでいく達者な浪曲を得意とし、戦前女流浪曲界の第一人者であった。芸歴が長い浪曲師としても知られた。

 詳しい素性等は不明であるが、明治末から既に活躍していたのは事実である。

 出身地は香川県丹生村だったそうで、後に丹生村と合併した香川県大内町の町史に、

浪花節 おかり節(浮かれ節)といわれ、各地区の大小神社のほとんどの夏祭りに欠かせないもので、夏の風物の一つとなっていた。丹生村出身の女流浪曲師摂津弁天(土居出身)・寿々木菊若(北山出身)なども戦前・戦後たびたび来演した。

 とある。

 一方、正岡容『雲右衛門以後』に「摂津弁天(伏見薪屋の娘、芸妓)」とある。よくわからない。

 元々は芸妓だったらしいが、声のよさを見込まれて当時流行り出していた浪曲界に進出――ただ、師匠などはよくわかっていない。独学なのだろうか。

 1912年に浪曲界へ入った梅中軒鶯童によると「自分より上の存在」だったらしく、鶯童が1914年に東京進出に失敗して大阪へ戻ってきた際、摂津弁天の一座に入った際には既に一枚看板であったという。

 1914年頃には既に「道頓堀弁天座」で看板披露をやっていたそうで、バリバリの一枚看板であった。この一座を仕切っていた竹本岩吉という人は、鶯童や日吉川小秋水などの少年浪曲師を相手に「弁天さんは別やけど」と、自分達と格が違うことをほのめかしていたという。

 ただ、この巡業では散々な出来だったそうで、すぐさま解散する羽目になった。鶯童は「お客にウケないで御難をした」といいながらも「女流としては珍しいしっかりした良い芸」と褒めている。

 1917年の番付では、「前頭筆頭」。吉田小奈良、前田八重子と当時の並みいる大幹部の次に来ている所を見ると相当な人気があったのだろう。

 主に巡業と関西の寄席で活躍。芝清之さんが特に記載をしなかったせいもあるのか、よくわからない点がある。

 芸豪と称されただけに、義士伝や先代萩といったお家騒動から、国定忠治や水滸伝の侠客物、時にはけれんを読みこなすほどの幅の広さを持っていた。ガッチリとした芸を持っていたそうで、美しさや美声だけに頼らない強さがあったという。

 実際、『文学風俗』(1929年6月号)掲載の「浪曲耳こすり」に「女流は歌あれどフシなし、科白あるはただ摂津弁天のみ、その弁天もどうしてゐることか」と一応の評価を受けている。

 そのくせ、ラジオやレコードとはあまり縁がなく、記録らしいものがないのが残念である。

 この頃、広沢菊一文字を養子にとり、後継者としている。

 1928年の番付では「別格」。京山円嬢と並べられている。

 1931年の番付では「女流検査役年寄」と女雲右衛門や浪花家虎筆と共に幹部扱いされている。

 1934年の番付では「行司」。この頃になると、古老の扱いを受けるようになっている。

 1936年の番付では「女流検査役年寄」。

 1937年春、二代目京山小円一座の特別ゲストとして参加し、朝鮮半島を巡業。『朝鮮新聞』(1937年3月25日号)に、

「関西浪曲界の人気者京山小圓が久々に京城を訪れに十六日から三日間京劇で熱演しファンを唸らせるといふ小圓独特の宗家人道鼓吹その迫力と妙節、まさしく天下一品の大浪曲である一座には女流浪界の権威摂津弁天が特別出演なし……」

 とある。

 1937年の番付も「女流検査役年寄」。

 1938年の番付ではなぜか「芸豪」と称されている。

 1939年の番付では「女流検査役年寄」。

 1941年の番付では「女流権威」「検査役」と二つに分けられている。

 1943年の番付では、「女流元老」

 戦後も生き延びたそうで、巡業を中心に枯淡の浪曲を聴かせていたという。

 1950年の番付では「女流元老」。

 1953年の番付では「女流権威」。

 1955年の番付では名前が消える所から、その前後で没したか、引退した模様か。いずれにせよ芸歴40年以上という女性浪曲師には珍しい長期レコードである。

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