水戸黄門一本槍・吉田若春

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水戸黄門一本槍・吉田若春

 人 物

 ・本 名 岡本 政市
 ・生没年 1892年~戦後?
 ・出身地 ??

 来 歴

 吉田若春は戦前活躍した浪曲師。吉田一門の出でありながら、お笑い浪曲を得意とし、水戸黄門一本で生涯を暮らした奇人である。「天下御免水戸黄門」というすさまじい肩書と赤い陣羽織を羽織ったパフォーマンスで人気を集めた。

 経歴は『改訂版浪花節名鑑』に詳しい。同著によると、

 吉田若春 岡本政市、明治二十五年生(読物十八番)水戸黄門 (初高座)明治三九年八月二十八日

 上の画像は1941年の浪花節番付から持ってきたものであるが、微妙に経歴に齟齬がある。個人的には名鑑のそれを取る。

 師匠の吉田一二三の経歴は不明。系図を見ると祭文語り・吉田久治の弟子に当るらしい。

 明治末から一枚看板として活躍。吉田派の人間でありながら、「義士伝」を一切やらない人物として知られた。

 上の画像にもある通り、「水戸黄門」が折紙付きで、舞台ではこればかりやっていた。一応「俊徳丸」「小栗判官」などもできたというが、基本は水戸黄門ばかりかけていた。

「水戸黄門」を十何段も有して居たそうで、これだけで寄席や旅巡業を済ませたというのだからすごい。兎に角ユーモアのある語り口と芸で知られ、モタレの芸人としては最高峰に近いものがあったという。

 皮肉になるが、モタレの王者であったものの、座長にはなれなかったともいえる。そんな芸に一生を捧げる凄さと悲哀を切実に感じるのである。

『浪曲展望10号』(1979年6月)の広沢駒蔵と浪花歌笑の対談の中に――

歌笑 (笑)、せやから、ケレン読みが心掛けとかないかんのは、ネタの種類が限られてんねんから、自分の個性に合ったもので、絶対に負けんものを一つ持っとらないかんということやろな。吉田若春ちゅう人、吉田派やなのにはじめからしまいまで「水戸黄門」専門やったからね。天下御免と書いた赤い陣羽織をつけて、一ケ月興行やったら一ケ月水戸さんをやる、何十段も持っとったんやね。この人なんか、若春といえば水戸さんの代名詞みたいなもんやった。

 とその芸風が語られている。赤い陣羽織を羽織って、大声をあげるところなど、存在そのものがおかしい。 

 一応の看板だった関係からレコードも吹き込んでいる。

 1925年5月、東蓄から「水戸黄門吉原遊び」を発売。

 1925年6月、東蓄から「楠公石碑建立」を発売。

 長らく番付とは縁がなかったが、1930年代に入るとチョボチョボ取り上げられるようになる。

 1938年の番付では「旧幹部及家元」。

 1941年の番付でも「旧幹部及家元」。

 1943年の番付でも「旧幹部及家元」。

 1945年6月16日、京山雪州、京山呑風、宮川松安と共に満州へ渡航。満洲映画協会の嘱託として一座を率いて満州を巡演。

 その慰問中に終戦を迎える。敗戦直前に赤痢に罹患した呑風は死去、残された三人は帰国までの逃避行を行った。

 満洲への残留を主張する宮川松安と対立し、京山雪州とともに引き上げを決意。結果としてこれがおかげで早く引き上げられた。

 戦後表舞台から退いている。引退したか、亡くなったか。

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