東西名古屋の一枚看板・大和家錦

浪曲を彩った人々

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東西名古屋の一枚看板・大和家錦

 人 物

 大和家やまとや にしき
 ・本 名 石塚 彦九郎
 ・生没年 1879年1月~1924年以降
 ・出身地 三重県

 来 歴

 大和家錦は浪花節黎明期から大正にかけて活躍した浪曲師。名古屋を中心に売り出し、東西で目覚ましい活躍を続けた。『太閤記』『義士伝』といった武家物を得意とし、不思議なユーモアと達者な語り口を売りにしたという。

 経歴は『浪花節名鑑』に詳しい。

大和家錦 本名・石塚彦九郎
 氏は明治十二年一月三重県員弁郡稲部村に生る、愛嬌タップリの中々面白い人で貴賤の隔てなく交を結び資性温順なり。十九歳名古屋芸人浪花家辰王の門に入り大和家伯尾と称して、勉励の結果二十三歳にて看板となり、同時に二代目大和家錦と改名す。

 1898年には既に浪曲界に入っていたというのだから古い。師匠は浪花家辰之助の門下の辰王。浪花亭駒吉、末広亭清風などは伯父弟子に当る。

 20世紀に入り独立。「大和家錦」を襲名し、名古屋近辺を廻っていた。普通に名古屋では人気があり、名古屋に居を構えたという。

 1908年1月、名古屋春喜座に出勤――と『近代名古屋歌舞伎年表』にある。

 1909年8月、京山亭こけら落としに列席したのを機に、東京に移籍。市場派に所属し、関東の浪曲師となった。

 ケレンにとんだ芸は面白がられ、すぐさま中看板として扱われた。一方、力演の余り変な事をぬかして観客に呆れられる事もあったという。『新仏教』(1909年11月号)に――

▲浪花節家大和家錦君曰はく、「赤樫の木劒四尺に餘る無反りの木太刀」と、大變なものを振舞はしたものぢやないか。

 と笑い話が出ている。

 『無名通信』(1910年3月号)では、東家楽燕、吉田虎右衛門、虎好、木村重松などと共に中看板として扱われている。

 1911年に発行された「浪花節有名会番付」では二段目前頭筆頭。ほぼ同位置なのが浪華蓉峰、木村重治、市場亭鯉造など。

 1912年3月には、京都千本座で独演会を決行。3日間で『太閤記』『義士伝』を毎日読み続けたという。

 1924年の『増補浪花節名鑑』にはまだ名前が出ているのでその頃まで健在だった模様であるが、昭和に入ると名前が消える。没した模様か。

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