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吉本の花形・桃川天声
人 物
桃川 天声
・本 名 栗野 徳一
・生没年 1899年~1954年
・出身地 大阪?
来 歴
桃山天声は、戦前活躍した浪曲師。吉本興業専属の浪曲師として、吉本系の劇場に出演。手堅い人気を集めたほか、わらわし隊にも参加した。
前歴等はよく判らない。少年時代には既に浪曲界に入っていた模様である。
師匠は二代目広沢虎吉の弟子の虎月。この虎月は、地方回りの浪曲師からデビューし、広沢巌輔門下、二代目虎吉門下と転々とした。
1917年頃、広沢晴海が看板披露を行った際、日吉川秋斎、梅中軒鶯童と共に少年浪曲一座を組んだ際、前座を勤めている。『浪曲旅芸人』の中に、
一行の顔ぶれは、看板三人の前が広沢駒蔵の甥にあたる駒坊(現在二代目駒蔵)その前が事務兼任の広沢吾楼、露払いが竹林軒改め広沢虎月の門人虎山(後の桃山天声)だった。
とある。
その後、数年の間、鶯童や広沢虎造の友達として各地を巡業したり遊んだりしている。
昭和に入り、広沢虎月門下から独立し、「桃山天声」と改名。桃山御陵から名前をとったらしいが詳細は不明。
この頃、栗野定子という女性と結婚。この人は「桃山定子」の名前で曲師をやっていた。
吉本興業に入社し、かつての友人・広沢虎造などと共に劇場へ進出した。ただ、寄席や漫才席には出なかったので謎が残る。
1937年の浪曲番付では、西前頭七枚目。その上には日吉川秋水、広沢晴海、日吉川秋斎などがいる。
1937年4月11日、JOAKの全国中継に出演し、「軍国の母」を放送。
1938年12月、わらわし隊の一員として軍事慰問に出かけている。「陸支普第八五〇四號 船舶乗船ノ件」に名簿が残っていた。
一、往路 昭和拾参年拾貳月貳拾貳日 神戸出港(高砂丸)南支行
二、復路 昭和拾四年壹月中旬南支發 神戸着朝日新聞社派遣皇軍慰問演藝隊南支班名簿
藝 目 藝 名 名 前 生年月日
漫 才 浮世亭公園 安福勇 明治卅六年四月十五日
仝 日の出男蝶 安福なつ子 明治四十四年三月十日
漫 才 香島ラツキ 香島慶一 明治四十二年四月十二日
仝 御園セヴン 八ツ代喜三男 明治四十二年一月卅一日
浪 曲 桃山天聲 栗野徳一 明治卅二年十月二十日
三味線 桃山定子 栗野定子 明治卅六年一月十六日
1939年9月8日、NHKより『軍国紙芝居』を放送。
戦後は病気に伏せるようになったらしい。
梅中軒鶯童によると「昭和29年没」との事。55歳というから若い。
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