浪曲師三代・天中軒秀峰

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浪曲師三代・天中軒秀峰

晩年の秀峰と大木伸子(関係者提供)

 人 物

 天中軒てんちゅうけん 秀峰しゅんほう
 ・本 名 石丸 竜雄
 ・生没年 1928年3月~1980年3月
 ・出身地 福岡県

 来 歴

 天中軒秀峰は戦後活躍した浪曲師。九州を根城にし、九州からほとんど出る事のない独立独歩の浪曲師であった。祖父が桃中軒峰右衛門、父が関東秀丸という浪曲師一家のサラブレッドとしても知られたが50代で夭折を遂げた。

 経歴は『浪曲事典』のアンケートに詳しい。

 ①珍しい浪曲三代の家系。祖父が桃中軒峰右衛門、父が関東秀丸、秀峰は妻大木伸子のギター、三味線で歌謡浪曲で活躍②天中軒雲月③昭和四十八年一月、石丸筑円から天中軒秀峰に改名④「王将」「件の母」「無法松の一生」「大利根無情」「人生劇場」⑤大木伸子⑦本名・石丸竜雄、昭和三年三月生まれ、長崎三菱工業卒

 峰右衛門の娘が関東秀丸に嫁ぎ、其の間に生まれたのがこの秀峰である(芝清之は峰右衛門の妹と書いているが、これは誤記だろう)。

「長崎三菱工業卒」とは、長崎三菱職工学校の事。三菱は各地に工学校を持っていたが、1923 年に一本化し、長崎に職工学校を設立。兵器や軍艦を作る職人や技師育成のための学校を創立した。

 1945年8月の長崎原爆では、多大なる被害を受け、生徒の多くも被爆死を遂げたはずであるが、秀峰は助かったようである。ただどうやって助かったのかはわからない。あるいはもう卒業をしていたのかもしれない。

 敗戦で職を失った事や父や祖父が浪曲師だった関係から浪曲を志すようになる。戦後から雲月に入門するまでの間の修業はよくわからない。秀丸には手ほどきを受けなかったそうであり、峰右衛門との関与も不明。自学自習だったのだろうか。

 後年、四代目天中軒雲月を襲名して九州巡業にやって来た立石弘に入門し、「天中軒」の屋号を許される。ただ、師匠には殆ど同行せず、九州の地におさまった。

 一時は筑紫五郎という名前で音頭ショーや歌謡ショウをやっていたが間もなく離脱。本名から「石丸筑円」と名乗り、歌謡浪曲師として舞台に出るようになった。

 1957年に父の秀丸が死去。相応の面識はあったにもかかわらず、芝清之の取材には「子供心でほとんど記憶がない」と答えている。別居でもしていたのだろうか。

 妻の大木伸子に三味線とギターを覚えさせ、夫婦で舞台に立つようになった。福岡県のホテル泰泉閣と専属契約を結び、同ホテルの余興に出るようになった。

 余興の関係から、本式の浪曲よりも村田英雄や二葉百合子のネタを元にした短い歌謡浪曲を得意としたという。それでも巧みな節まわしや掛合で観客を感心させるだけの腕前はあったという。

 1973年1月、師匠の雲月に許可を取り、「天中軒秀峰」と改名。父の秀丸、祖父の峰右衛門から「秀峰」と名乗った。

 改名後も泰泉閣の名物芸人として活躍を続けていたが、1980年に倒れ、その年の3月に死去。

『浪曲ファン』(1981年5月号)に、 

◇天中軒秀峰が死去 夫人の連絡によると昨年三月死去した。秀峰は祖父が桃中軒峰右衛門、父が関東秀丸で三代にわたる浪曲家だった。九州を地盤に歌謡浪曲で活躍していた。

 とあるのが確認できる。50代前半での余りにも早い死であった。

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