浪曲物語の筑波雲

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浪曲物語の筑波雲

 人 物

 筑波つくば くも
 ・本 名 加藤 萬造  
 ・生没年 1903年3月22日~1976年以降
 ・出身地 栃木県 足利市

 来 歴

 筑波雲は戦前戦後活躍した浪曲師。雲右衛門晩年の弟子で、桃中軒雲成と名乗っていたが後年「筑波雲」と改名。師匠譲りのネタのほか、語りや音楽を入れた「浪曲物語」を演じるなど話題の多い人物であった。

 経歴は『レコード音楽技芸家銘鑑 昭和15年版』に詳しい。

筑波雲 本名加藤萬造、明治三十六年三月二十二日足利生。年少にして浪曲中興の祖故桃中軒雲右衛門の入る。大正十五年渡米、昭和四年筑波雲と改名披露興行を本郷座に於て行ふ。昭和七年に再度渡米し翌八年に帰朝す。

 10代で既に一角の浪曲師だったらしく、雲右衛門が死んだ時には既にある程度の地位はあったという。酒井雲よりも兄弟子であったというのだから、相当早くから浪花節に出入りしていたのだろう。

 元々は「桃中軒雲成」と名乗っていた。

 雲右衛門死後は独立独歩で行動し、兄弟子たちの雲右衛門襲名戦争を横目に一心不乱に芸を磨いた。雲右衛門の名跡に固執しない態度は逆に信頼の証となったというのだから世の中わからないものである。

 演題は広く「義士伝」「曾我物語」といった師匠譲りの演題のほか、「乃木将軍」「石田三成」「広瀬大佐」「出世の盃」「大谷刑部」などといった有名な作品、新作の「ナポレオン」なども読んだ。

 1926年春、女義太夫の竹本越龍・越駒に誘われてアメリカ巡業へ出かける事となる。越駒の引き立て役、前読みとしてのスカウトだったようであるが、当時としては珍しい渡米を行うことが出来た。

 5月、ハワイに上陸し、1月半ほどハワイ各地を巡演。7月に米国本土へと乗り込んだ。

 10月まで越駒と行動し、その後は在米芸人の三升家村雲と一座を組んで廻っていた。翌年3月まで放浪して興行を打っていたというのだから根強い人気があったものである。

 帰国後、思う所あって改名を志すようになり、1929年に「筑波雲」と改名。芸名は「赤蜻蛉筑波に雲もなかりけり」といったところか。

 襲名は1929年5月29日の「本郷座」だろうか。芝清之の本では、当日の出演者は酒井雲――となっているのだが、もしかしたら二枚看板で出て襲名披露を行ったのかもしれない。

 雲右衛門門下生たちが次々とドロップアウトをする中で、筑波雲は一流を打ちたて幹部となった。

 1930年10月15日、全国中継に出演し「稲川東下り」を放送。

 1931年4月22日、JOAKに出演し、「大盃」を放送。

 1932年2月5日、JOAKに出演し、「俵星玄蕃」を放送。

 1932年3月29日、仙台放送へ出演し「大石東下り」を放送。

 1932年7月8日、JOAKに出演し、「柳田格之進」を放送。

 1932年秋、再びハワイとアメリカの興行師に招かれ渡米。今度は「浪曲界の重鎮・筑波雲」と堂々たる一枚看板で紹介されている。

 11月8日には「送別会」まで行われている。『読売新聞』の広告によると――

雲送別会 故雲右衛門の門弟筑波雲は来る十五日横浜より再度の渡米をなすことになったので各派の代表が応援出演し来る十日午後五時から日比谷公園の市政会館で「筑波雲渡米送別名人会」を行ふ

 その後、ハワイへ上陸し、各地を巡業。1933年の正月はハワイで迎えた。

 1933年春に米国本土へ渡り、春先まで巡業している。

 1933年6月3日、JOAKに出演し、「魚屋本多」を放送。

 1934年2月2日、JOAKに出演し、「大谷刑部」を放送。

 1934年5月8日、JOAKに出演し、「秀吉と正宗」を放送。

 1935年4月30日、JOAKに出演し、浪曲物語「ナポレオン物語」を放送。

 活動弁士の片桐醒夢と手を組み、浪曲の部分を筑波雲が演じ、語りや音楽を片桐が語る――というものであった。

 なかなか評判のいい放送となったらしく、「NHK年鑑」にも記録がある。この頃から、ラジオスターとしての貫禄も見せるようになった模様。ただ、その割には番付とはロクに縁がなく、顔ぶれで確認するのができないのはどういう訳か。

 1936年2月6日、JOAKに出演し、「梶川の大力」を放送。

 1937年2月7日、仙台放送から全国中継を行い、「奥村五百子」を放送。

 1937年8月22日、JOAKに出演し、「御預中大石主税」を放送。

 1938年1月8日、JOAKに出演し、「大石東下り」を放送。

 1938年2月14日、JOAKに出演し、「南部坂雪の別れ」を放送。

 1938年10月7日、JOAKに出演し、「大石の娘」を放送。

 1939年1月22日、NHKに出演し、「乃木将軍信州墓参り」を放送。

 1939年10月5日、NHKに出演し、「散るも散らぬも桜花」を放送。

 1940年5月17日、NHKに出演し、「俵星玄蕃」を放送。

 戦時中は慰問や巡業で活躍。戦火で浪曲界を離れる看板が多い中で、粛々と活躍を続けていた。

 戦後も浪曲界に残り、主に慰問で活躍。渋い雲節を聞かせて好事家を喜ばせていたという。また、赤穂義士を顕彰する「中央義士会」の会員となり、例会に出演しては浪曲を口演し、会員たちを喜ばせていた。

 ただ、1961年頃より消息が辿れなくなるところを見ると、この頃引退した模様である。

 それでも、その後も健在だったらしく、1976年度発行の番付では長老の一人として並べられているのが確認できる。

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