弟は辛いよ・東家小楽遊

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弟は辛いよ・東家小楽遊

 人 物

 東家あずまや 小楽遊こらくゆう
 ・本 名 中村留五郎
 ・生没年 1890年7月~1950年7月26日
 ・出身地 東京

 来 歴

 東家小楽遊は戦前活躍した浪曲師。兄が二代目東家楽遊、弟が東家小雀という名門の一族であったが、兄には及ばず中看板で終わった。三兄弟の中では一番早く夭折した。彼が生前とった弟子が東家楽浦で、今続く東家の系統の源流はこの人にあったりするから皮肉である。

 中村力松という大工の四男として東京に生まれる。兄に東家楽遊がおり、弟には東家小雀がいる。

 学校卒業後、親の仕事を手伝っていたが、兄の楽遊が売り出していい生活をしている事、自身も浪曲が好きだった事から、仕事を投出して兄の門下になった。

 当初は「東家楽雄」と名乗っていたらしい。その後、兄の前座名を受け継いで「東家小楽」と名乗っていた模様である。

 入門時、兄の楽遊は『小松嵐』で全盛を迎えており、大劇場や寄席を掛け持ちする程の人気があった。その恩恵を被ったというのだから、先行きの良い前座であったといえよう。

 若い頃は楽遊よりもうまいのでは、という説もあり、『雲』(1912年10月号)の寄席巡りの中で、

八「小楽は兄(楽遊)より芸といふ点から云へば或は巧いと思ふが如何だ」
色「久し振りで聞いたが、或は左様かも知れないよ。僕は彼れが未だ楽雄といつた時代から然思つてゐた」
八「争はれないもので声節から好く似たものだねえ。改名以来何だか少し愛嬌が乏しくなつたやうに思ふが、まだ納まり返る時代ではない」

 と触れられている。兄よりもうまい下馬評があったにもかかわらず、兄に遂に負けたのが惜しいといえようか。

 1913年秋、「東家小楽遊」と名を改め看板披露を行った模様。

 1914年6月20~25日、兄・楽遊の明治座リサイタルに出演し、弟の小雀、一門の楽鴈などと共に浪曲を披露した。

 1915年1月、ハワイ巡業へ出発。兄弟弟子の東家燕遊、桃中軒雲太夫、三味線の妻川小勇という三枚看板での興行であった。

 当地の日系新聞『新世界』(1月30日号)に、

東家小楽遊来らん 来月初め桑港に上陸する東都浪界の大立物東家小楽遊は来月十九日頃の初日として帝国ホールに於て三日間興行する筈なり

 とあるのが確認できる。

 4月にはアメリカ本土へ移動し、1916年夏まで1年半余りアメリカ全土を巡業している。評判は上々だったようである。

 1916年9月、日本へ帰国。凱旋公演を行う予定であったが、帰国直後、桃中軒雲右衛門が夭折。その葬儀やドタバタで流れてしまったのが可哀想であった。

 それでも、12月6日から10日にかけて兄の楽遊と共に明治座で帰国公演を行っている。

『都新聞』(1916年12月3日号)に、

明治座の東家小楽遊 六日より四日間、米国帰朝の同人披露興行をなす。補助は、楽遊、小雀の兄弟他、東家一門。

 これが小楽遊としての絶頂だったのではないだろうか。

 兄の威光で人気を集め、兄の凋落と共に人気を失ったという点では「偉大な兄を持ったが故に苦労した人物」といえそうだ。もっとも人間的には良い人だったそうで、それゆえに大きな僻みやいじめを受ける事はなかったという。

 一方で、潔癖な所があったそうで弟子の育成はうるさかった。東家楽浦は「便所の掃除の仕方が悪い」と叱られ、事実上の破門を受けている。

 当の楽浦は『浪曲ファン1号』のインタビューの中で、

――師匠はどうして浪曲家になったんですか。その動機など。

楽浦 私が楽燕の弟子になりたいと思って訪ねたのが兵隊検査ののち(大正八年)ですが、その時、楽燕の所には十人も弟子がいて断られた。ま、私もレコードを聞いて十五、六のときから浪花節に興味を持っていましてね。それに奉公先のオモチャ屋の主人というのが、大の浪花節ファン。そこに雲右衛門の「五郎正宗」なんかがあって、主人と咆哮人が一緒になって聞いていた。 

 兵隊検査のあと、楽燕に断られたので、小学校の五、六年先輩になる男で、楽遊の弟子で楽扇というのがいた。これを頼って弟子にして貰った訳だが、すでに楽遊のとこにも十人ほどの弟子がいたので、お前、小楽遊についていろ、という訳で、小楽遊について、それで小楽遊の弟子ということになっています。その頃、修行は五年、内弟子で、何もかもやらされたもんですが…… 

 ――その頃のけいこは…… 

 楽浦 およその基礎は教えてくれますがね。弟子部屋に集まってね。師匠の家は浜町にありまして、一町ばかり行くと川に出るんです。ちょうど花井お梅が箱屋の峰吉を殺した場所に出るんです。その川っぷちで夜になると、みんな大きな声で水っ面めがけて声を流すんですよ。 

 その時分の大川は白魚がとれましてね。うなぎも釣れたもんです。だからね、鰻釣りの夜釣りの太公望が釣りながら浪花節を聞いているんですよ。「お前、いい声だな」なんてね。それが毎晩なんで、「今夜はこねえな。あっきた。お前こっちへ来い」なんてね。 

 その師匠んとこを運よく暇出されちまった。うちのおやじってのはうるさい人でね。便所掃除が悪かったんでね。一年半ばかりでしたね。みんなヅボラばかりで……。 

 それで、あっちこっち厄介になって、小柳丸のとこなんかにずい分いました。それがよかったんですね。寄席芸人のとこ回ったのが……。ここで本当の寄席の芸ってのが判った。破門されてよかった。

 と語っている。もっとも、家を追い出しながらも「東家楽浦」の名前を取り上げず、楽浦が港家小柳丸の家に転がり込んでもクレームをつけなかった辺りは優しさと言えるのだろう。

 人徳があったのかもしれない。

 しかし、芸の方では兄の模倣という評価が付きまとった。芝清之に至っては『浪曲人物史』の中で「浪曲は決して巧い人ではなかった。所詮は兄の物真似にすぎず、と云って兄ほどの美声ではなく、人気も今一息という所で終った」とボロカス貶している。

 もっとも、実力がなかったかというとそういうわけでもない。兄が余りにも偉大だったといえるのかもしれいない。

 兄の威光を含んでいるのかもしれないが、一応レコード吹込みをやっている。

 全てマイナーレーベルであるが、相応に聞ける。兄ほどのカリスマ性はないが、実直な関東節という感じで味わいはある。日文研のサイトから聞く事ができる。

 1926年6月7日、JOAKに出演し、「雷電の義侠」を放送している。

 一時期は「三代目楽遊」のうわさもあったようだが、結局名跡は弟弟子の左楽遊に譲られ、自身は中堅に留まった。

 1933年に兄が「東家悟樂斎」と改名し、事実上の隠居を迎えると小楽遊もまた一線を退いた。

 時たま舞台に出ていたようであるが、全盛時代の覇気はなく、古老として舞台を淡々として務めるにとどまった模様か。

 その後、戦争の苦労もあったのか、1950年に60歳の若さで亡くなった。兄の楽遊、弟の小雀に先立っての死であった。そういう点でも、遂に偉大な兄を超えられなかった可哀想な存在ともとれる。

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