最長老・廣澤虎吉(三代目)

浪曲ブラブラ

[random_button label=”他の「ハナシ」を探す” size=”l” color=”indigo”]

最長老・廣澤虎吉(三代目)

95歳の時の広沢虎吉(右)

 人 物

 廣澤ひろさわ 虎吉とらきち
 ・本 名 井上 政次郎
 ・生没年 1875年3月20日~1970年6月13日
 ・出身地 大阪日本橋

 来 歴

 三代目広沢虎吉は戦前活躍した浪曲師。95歳という驚異的な長命を保ち、最晩年小沢昭一の『放浪芸』の取材に協力した。今なお浪曲史に残る「廣澤虎造」の初代を名乗ったのはこの人。

 芝清之『浪曲人物史』によると、父は井上新之助という興行師。この新之助の兄(虎吉から見れば叔父)が初代広沢虎吉であった。

 この初代虎吉の門弟で、井上家に入ったのが、二代目広沢虎吉(井上晴夢)。二人は義理の兄弟に当たり、虎吉は晴夢を敬意をこめて「アニキ」と呼んでいた。

 父が興行師だった関係から、幼くして浮かれ節(浪曲)に親しみ、叔父の初代に預けられた。「廣澤虎造」と命名され、浮かれ節のイロハを学び、叔父や晴夢と行動した。

 一部文献では「二代目の弟子」とあるが、初代の弟子である。もっとも、初代亡き後は二代目を慕って行動したため、高弟とも取れなくはないのだが――

 明治20年代より浪曲界にいた関係から大道の浪花節、門付けの浪花節、旅巡業などの古い時代の事を知っており、これが後年の貴重な記録となった。

 啖呵読みで知られた二代目虎吉と違い、三代目は節の方で人気を集めたという。しかし、二代目が余りにも偉大過ぎたせいか、浪曲の評価はあまり残されてない。

 どちらかというと「義経記」「須磨の浦風」「源平盛衰記」など、浮かれ節時代の名残を残す古風な読み物を得意としたという。

 大阪の寄席や劇場で活躍しながら、兄の劇場経営を手伝い続けた。巡業先の下関で旅回りをしていた京山幸玉のうまさに感激した虎吉は、すぐさま兄の晴夢に相談し、晴夢が承諾。幸玉を大阪に呼び寄せ、晴夢の浪曲小屋に出した所、素晴らしい人気を集めた。幸玉の出世の糸口を作った一人とされている。

 1922年、兄の虎吉が完全に一線を退いて「井上晴夢」と隠居したのを機に、三代目虎吉を襲名。長年名乗った「虎造」の名前は兄の弟子である廣澤天華が襲名した。これがご存じ二代目虎造。

 しかし、この頃には既に浪曲師として盛りは過ぎていたようで、事実上の名前預かりであった。

 晴夢の指名もあり、1923年には、甥弟子の廣澤菊水に「四代目虎吉」を禅譲。自身も第一線を退いて、監督になった模様。

 その後は、兄の劇場経営の手伝いや浪曲の世話役をしながら暮らしていた。戦後は富士月子が経営する「双葉館」の劇場事務を一手に引き受け、安楽に暮らしていた。

 1966年、二代目虎造の弟子である虎之助に「三代目虎造」を襲名させるために、骨を折った。

 しかし、この襲名には色々いざこざがあったらしく、襲名費用の動きがあったり、二代目未亡人の承諾を取る前に三代目虎吉が「自分は初代であり、廣澤宗家である」という考えから名前を無理やり巻き上げ、「虎造」の襲名を許して未亡人を怒らせるなど――色々ゴタゴタはあった。

 虎造一門や関係者からも相当反対が出たというが、それを全て押し切り、三代目を襲名させたのは偉いというべきだろうか。良くも悪くも強い気骨と山っ気はあったようである。

 1970年春、筑波武蔵・梅中軒鶯童の斡旋で俳優の小沢昭一が「放浪芸採録」にやってくる。

 この時、虎吉は老齢で失明していたが、周りの介助で小沢昭一と対面。凛凛たる声で、小沢昭一の質問に答えた。

 そのインタビューの様子は「日本の放浪芸」で聞く事ができる。勘の高い声をしている。

 小沢昭一の取材を受けた1月後、ふとした病から寝込み、3日後に老衰で死去。95歳という驚異的な長命を保った。

 墓は大阪市の瓜破墓地にあるという。

[random_button label=”他の「ハナシ」を探す” size=”l” color=”indigo”]

コメント

タイトルとURLをコピーしました