広沢虎造の義母・呑気家綾好

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広沢虎造の義母・呑気家綾好

 人 物

 呑気家のんきや 綾好あやこ
 ・本 名 山田ふじ
 ・生没年 1869年8月15日~1931年7月3日
 ・出身地 ??

 来 歴

 呑気家綾好は戦前活躍した浪曲師。若い頃は女流浪曲の花形として、晩年は大阪上がりの浪曲師で婿の広沢虎造の売り出しに力を注いだという。今日では虎造の義母として知られる。

 年齢と本名は『芸人名簿』より割り出した。

 内山惣十郎『浪曲家の生活』によると、浪花亭綾造の門人で「綾好」という名前を貰ったのが振り出しであるらしい。

 しかし、浪花亭への遠慮からか「呑気家」という亭号で活動する事となった。いい加減といえばいい加減であるが、男社会であった業界の哀しみとも読めなくもない。

 女だてらに啖呵がうまく、またとぼけたユーモアを持っていた関係から、侠客物と滑稽物を得意としたという。

 その人気は高く、明治30年代後半の浅草では美人浪曲師として高く評価された。桃中軒團菊とは良きライバルであったと聞く。

 私生活では、美弘舎東一と結婚し、娘を授かった。この娘が後に虎造に嫁ぐ人物である。

 明治末の番付には、既に、吉田元女や桃中軒團菊などと共に人気者に数えられている。

 1922年、上京してきた広沢虎造の才能に見込んで、娘で曲師の広沢美家好と結婚させた。虎造を婿養子に入れ、「山田信一」と改名させた。

 娘の美家好を虎造好みの曲師にすべく仕込み、自分も虎造の売込みのためにわざわざ前読みになって、虎造を引き立てた。夫の東盛も虎造のバックにつき、よき理解者となった。

 更に自身の看板を割っても虎造の売り出しに力を注ぎ、虎造の前読みになった。

 もっとも、当初の虎造では綾好の芸に太刀打ちできず、綾好の芸で観客の殆どが帰ってしまう事があったという。正岡容は『雲右衛門以後』の中で、

 廿三歳、真打になつて帰京し、曲師たる現夫人を迎へたが、夫人の母親は呑気家綾好とて滑稽読の女流浪曲師であつた。この綾好が虎造出演の直前に登場して熱演すると、客は真打の虎造を聴かずしてみなかへつてしまつた。(尤もその頃の虎造の節調は単なる虎丸節のイミテーションに過ぎなかつたと言はれてゐる。)発奮勉励した彼は、先代虎丸調の明るさへ、配するに先代重松の感傷調を以而した。

 と記している。

 それでも虎造に叱咤激励を与え続け、めげずに娘と共に虎造を支えた。

 1920年代後半に入ると、虎造も一枚看板となり、東京を代表する浪曲師となった。

 娘婿の出世を見守って安堵したのか、1931年7月3日、静かに息を引き取った。残された夫の東盛と娘の美家好が大スターの階段を上る虎造の支え役となった。

 芝清之によると、文京区白山の「蓮華寺」に墓があるという。

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