爆音の木村忠衛(初代)

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爆音の木村忠衛(初代)

 人 物

 木村きむら 忠衛ただえ
 ・本 名 高瀬 清太郎
 ・生没年 1900年~1970年1月5日
 ・出身地 富山県

 来 歴

 木村忠衛は戦前戦後活躍した浪曲師。爆音的な美声で知られ、満場の歌舞伎座の客を臆することなく、隅から隅までマイクなしで響かせるほどの声を出せたという。師匠を転々とした変わり種でもある。

 出身は富山。一枚看板になるまでは相当の遍歴を辿っている。LP『浪曲名人劇場』の解説によると、

 木村忠衛  富山県の出身。
 十五才の時 田舎巡りの浪曲一行に加わって廻る。声がいいから勉強しなさいと云われたが田舎ばかりなのでやめてしまう。その後大阪へ出て板前修業に入る。居たところが松島で浪曲の定席広沢館の近く。この広沢館で天光軒満月 (初代)をきき、 再度浪曲家を志し満月を師として宝月を名のる。  
 上京して木村重松師のもと、天光軒を名のっているわけにもゆかず、木村吉松となる。しかし弟子が多勢上京した吉松はハミ出されたかたちで当時重友の高弟で友忠の門人となり木村忠、 友衛が売り出した頃それにあやかり忠衛となる。不運に咽喉の手術等で声の変調、弟子の駒衛へ二代目を襲名させ引退する。

 宝月は「鳳月」が本当のようである。また、『読売新聞』(1937年5月7日号)によると、

木村忠衛は元鼈甲斎虎丸に師事芸名吉太郎、関東節に転向するため木村友忠の門下となり忠から六年前忠衛となつた、ビクター専属で澤田興行部に属してゐる、曲師は三年前物故した妻川歌燕の未亡人美代志である

 と、事情が詳しく触れられている。芝清之の調査によると満月門下→重松門下→虎丸門下→木村友忠門下という形であるそうな。忙しい人物である。

 師匠の友忠が稀代の寄席読み名人だった事から、多くの寄席に出演し、名人上手の芸に接した。そのため、様々なネタを読みこなせたそうである。

 とにかく声が良く、爆音である所から、関東節には珍しい大音家として重宝されたが、富山訛りの残る啖呵がコンプレックスであった。そのため、遂に大看板になり損ねたのはその訛り故とも評される。

 もっとも、youtubeに残されたレコードなどを聞くと、筒一杯の美声に、意外にイナセな話術と展開しており下手クソとは思えない。今の浪曲師なんか足下に寄せ付けない程、うまい。綺羅星の如く名人上手がいた時代故の評価の厳しさであろう。

 1931年に一枚看板となり、「忠衛」と改名。当時、木村派の重鎮として売り出していた「木村友衛」にあやかったのだという。芝清之などは、「歌舞伎座の浪曲劇に抜擢されたのを機に忠衛と改名した」と論じているが、それは眉唾。少なくとも、1931年には忠衛として舞台に出ている。

 1932年8月、当時歌舞伎座の夏の名物として親しまれていた二代目猿之助主演の「弥次喜多道中」の劇中劇で行われる浪曲に出演。松竹の幹部で、浪曲界の相談役であった向山庄太郎が「歌舞伎座でも筒一杯出せるのは忠衛だろう」と抜擢したという。いい話ではないか。

 その笑い話が 『読売新聞』(1932年8月19日号)に出ている。

浪曲劇に浅草まで通って浪花節修業 奥州膝栗毛楽屋噺

 大詰「松島」の場は宮城野信夫姉妹の敵討、ここで猿之助の弥次は居合抜きの大長刀で喜太八と共に助太刀の野次馬騒ぎをする。 寿美蔵の殿様が敵志賀團七の前へ姉妹を呼び出すと、突然チョボ床から浪花節が聞え〽ハツとこたえて花なら蕾……の文句に、見物オヤッと面喰ふと、之からが大変、歌舞伎の檜舞台へレヴュー娘の足が踊るの右さへ苦々しく思ふ連中もあるのに、猿之助、友右衛門、八百蔵、寿美蔵が一くさりづゝ怪しい浪花節を唸つて『節劇』をやる。弥次さんは〽持って生れた男の意地で……八百蔵の敵は〽ヤツとばかりに振りかぶり……なぞと、女惚れのせぬ声を出すので大笑ひ。地の節は松竹斯道の通人向山庄太郎氏が連れて来た友忠の秘蔵弟子木村忠衛が語り、曲師(三絃)は師匠の妻女が勤めてゐる

 この時の珍妙振りは、なかなか印象深い話だったそうで、木村錦花も『近世劇壇史』の中で、

 松島海岸の場で使った浪花節は、御簾内ではあったが、木村忠衛の出演で『はつと答へて出で來るは』から始まる、突如応り出されて見物は失笑する、最初は地を語らせて俳優は動く一方であつたが、さて稽古になつてみると納まらない……

 というような事を書いている。

 何はともあれ歌舞伎座の大舞台に抜擢されたのは、忠衛の面目を大いに施したそうで、これ以降一枚看板として、師匠の友忠や兄弟弟子と看板を割ってもらえるほどに成長した。また、レコードやラジオ出演の依頼も舞い込み、一躍人気者となった。

 1932年9月、タイヘイより『梁川庄八』を吹き込み。

 1932年11月、オーゴンより『天保六花撰 吉原の捕物』を吹き込み。

 1932年12月、ポリドールより『人間馬占山』を吹き込み。

 1933年、コロムビアの子会社・リーガルレコードから吹込み契約の申し出を受け、リーガルレコードからレコードを発表する僥倖に恵まれた。以下はその吹込みで確認できるもの。

 1933年1月、『国定忠治』。

 1933年2月、『金市の召捕』『慶安太平記』。

 1933年3月、『石松の最期』。

 1933年4月、『梁川庄八』『河内山宗俊』。

 1933年5月、『梁川庄八より石子責め』。

 1933年7月、『雷伝と小野川』。

 1934年2月、『塩原多助』。

 1934年3月、『板割浅太郎』。

 1934年4月、『国定忠治 山形屋の場』。

 1934年6月、『安中草三郎』。

 1934年7月、『河内山上州屋』。

 1934年8月、『慶安太平記』。

 1934年9月、『小金井小次郎』。

 1934年11月、『小金井小次郎・新兵衛の対面』。

 1935年1月、『義士の討入』。

 1935年2月、『め組の喧嘩』。

 1935年3月、『小次郎旅日記』。

 1935年4月、『笹野権三郎』。

 1935年5月、『妲妃のお百』。

 1935年6月、『俵星義心の槍』。

 1935年7月、『雷伝と小野川』。

 1935年8月、『おこよ源三郎』。

 1935年10月、『越後伝吉』『小猿七之助』。

 1935年12月、『恋の国定忠治』。

 1936年3月、『三千歳廓抜』。

 1937年2月、『天明白浪傳』。

 なお新作の多くは、浪曲作家の水野草紙庵が提供していたという。

 さらに、リーガルの目から逃れるように「木村忠」名義でニットーやテイチクから吹き込んでいる。いい加減である。もっとも後年は開き直るように、木村忠衛名義になっているのだが――

 また、タイヘイやビクターからも吹込みをやっている。全体的に見れば50枚近く吹き込んでいるのではないだろうか。

 後年、ビクターに近づき、吹き込むようになる。1936年頃、ポリドールと専属契約を結び、同社のタレントとして活躍した。

 1936年7月、『勝太郎子守唄』。

 8月、『小金井小次郎』。

 9月、『河内山宗俊』。

 10月、『慶安太平記』。

 11月、『祐天吉松・飛鳥山の対面』。

 12月、『会津の小鉄・前篇』。

 1937年1月、『会津の小鉄・後編』。

 2月、『天明白浪傳』。

 3月、『彰義隊の恋』。

 5月、『忠治赤城落ち』。

 7月、『法印大五郎』。

 8月、『近藤勇』。

 11月、『大瀬半五郎』。

 12月、『江戸の華纏小町・前篇』。

 1938年1月、『半七捕物帳・勘平の死』。

 2月、『新版召集令』。

 4月、『名垂れの岩松』。

 5月、『御家人ざくら』。

 8月、『切られ与三郎』。

 9月、『福島少佐』。

 12月、『権八ざんげ』。

 1939年2月、『坊主ヤクザ』。

 3月、『流雲兄弟鴉』。

 5月、『愛馬進軍歌』。

 6月、『噫軍神西住大尉』。

 7月、『荒神山』。

 戦後も東宝名人会や東横有名会などといった大舞台に出ていたが、声の不調に悩まされるようになった。

 そこで手術を受けて、声の出をよくしようとしたが失敗。声を出せなくなるという悲劇に見舞われたという。

 1946年10月、弟子の駒衛に「忠衛」を譲り、自身は敬愛していたかつて兄弟弟子の「木村重行」の名を襲名し、「二代目重行」となった。品川座で襲名披露を決行し、私淑する東家楽燕に口上を述べてもらった。

 ただ、この襲名は事実上の引退宣言だったらしく、喉の不調もあってか、表舞台から退いた。晩年は弟子の成長を心待ちにしていたという。

 1970年1月5日、69歳で死去。高尾霊園に墓がある。

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