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動物物真似の橘家圓玉
人 物
橘家 圓玉
・本 名 岩出 源次郎
・生没年 1865年5月22日~1921年3月6日
・出身地 東京?
来 歴
橘家圓玉は明治から大正にかけて活躍した物真似芸人。本業は落語家であったが、落語よりも掛合話や物真似に味わいがあり、当人も「猫の円太」「猫の円玉」というアダ名で活躍を続けていた。
生年月日は『芸人名簿』から割り出した。「橘家圓太 岩出源次郎(慶応二、五、二二)」とあるのが確認できる。
『古今東西噺家紳士録』の記載を簡単にまとめると――
初代柳亭左龍の門下で柳亭左伊龍、新派俳優木村武之祐の門下に移って鬼丸と改名。
明治30年代末に4代目橘家圓蔵門下に復帰して橘家〆蔵、1907年頃、橘家圓太と改名。1910年に橘家圓五郎で真打扱いを受ける、
1912年に再度圓太に戻し、1915年、橘家圓玉を襲名。 動物の物まねや橘家圓十郎との掛け合い噺を得意とした。
一方で、「鬼丸」と名乗っていたのは新派俳優ではなく、茶番師として――という説が『都新聞』(1921年3月11日号)に出ている。
一時期は「猫の円太」とあだ名されるほど、猫の物真似がうまかったらしい。林家彦六は後年、『林家正蔵随談』の中で、
横浜へ電車でかけ持ちをするようになった時分、……その時分には橘家円幸になった。で、同門で橘家円玉ってえのがいまして、これ前名を円太といって、猫の泣き声のうまいひと。……いま江戸家猫八君などもやってますが、このひとが高座で猫の泣き声をやると、路地で遊んでいる猫がわざわざ顔を出すくらい。”猫の円太”といわれるひと。……このひとと向かい合わせで座席へ坐った。
円太が、
「なに見てんだい?」
「いや、日記だよ」
「おれにも見せてくれ!」
……って、円太がだんだん見て行くうちに、”間男の部”ってえのがある。そこに自分の女が書いてあるんで、
「おい! こりゃ、おれの女じゃねえか、この野郎め!」
って、いきなり手が出た。
みんなが止めに来て、
「どうしたんだ!」
「この野郎! 太てえ野郎だ!」
っていったら、 六が、
「おいおい、よく見ろよ! 未遂となってるだろう。予定には入ってんだが……」
という笑い話を紹介している。
一方、落語家としてもそこそこうまかったそうで、三遊派の落語を得意としたようである。三遊亭円歌、三遊亭圓生が得意とした『紋三郎稲荷』はこの人の高座がベースになっているという。
円歌は円玉から直接手ほどきを受けてもらい、圓生は円玉や円歌の高座に、師匠・圓蔵の速記本、更に自身の考証を加えて一席の噺に練り上げた。これは『圓生全集・中』でも語られている。
紋三郎稲荷
この噺はあたくしの師匠品川の圓蔵が演りましたが、実は私は師匠のは一度も聞いたことがありません。私の兄弟弟子で圓太、のちに橘家圓玉となって真打になった人ですが、この人がよく演っていたのは聞いていましたが、師匠のは聞かなかった。けれども速記にも残っているんで、師匠が演ったことは間違いないんです。
最近では亡くなった圓歌さんが演っていましたが、今は私のほかに演る人はいないようです。 この噺でおかしいのは常陸笠間のお大名の名前を牧様と言っているんです。これは速記にもそうなっているし、圓歌さんも圓玉から教わって演っていたんですが、やはり牧様と言っていました。あるいは何か理由 があって、わざとそう言ったのかどうか、よくわかりませんが、笠間の城主は「牧野」なので、あたくしは 「牧野様」と言って演っています。 それから駕籠に乗って行く道中の道順もずいぶん出鱈目なところがありましたので、私は本を調べてなおしました。
さほどおもしろい噺というのでもありませんが、まめずらしい噺でございます。
晩年は睦会を中心に淡々と高座を勤めていたが、1920年暮れに倒れて、そのまま療養生活に入った。復帰することなく、3月に死去。
『都新聞』(1921年3月11日号)に
▲圓蔵門下で動物の啼声と軽口を売物にして老巧と云はれてゐた圓玉は去年の暮から病気でゐたが三月初めに死んだ▲圓玉は元木所の天狗連で鬼丸といふ茶番師だった何れも各所の神樂堂で紡織女子守娘と散散浮気をしたのが原因で病になつたものらしいといふ
という訃報記事が出ている。墓所は台東区仏心寺にあったそうで、戒名は「遊行院笑楽信士」。
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