戦死をした東家小三楽

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戦死をした東家小三楽

 人 物

 東家あずまや 小三楽こさんらく
 ・本 名 野呂 茂三郎
 ・生没年 191
3~1942年1月21日
 ・出身地 茨城県

 来 歴

 東家小三楽は戦前活躍した浪曲師。入門して数年で頭角を現し師匠三楽にして「三代目を譲るならこの男」と唸らせるほどの実力者であったというが、日中戦争で応召され、中国戦線で戦死をした。

 出身は茨城。学校卒業後、父・熊吉の家業を手伝っていたが、浪曲師になるべく18歳の時に上京。

 天中軒如雲月に入門し、浪曲師となる。間もなく如雲月が「東家三楽」を襲名したため、自身も「小三楽」と改名した。

 1934年、兵役検査を受ける。甲種合格となったが、くじ引きで徴兵期間が半年伸びたという。

 1937年12月、北支に渡り2年間、中国戦線を渡り歩いた。兵隊の傍ら、慰問会や余興で浪曲を演じ、喝采を浴びたという。

 戦地時代、「月下の誓い」と戦争浪曲を創作し、披露。師団長の前で口演を許されるほどの実力があったという。

 1940年、一度除隊をうけ帰京。凱旋公演を行ったというが、1941年に再び応召。中国戦線に送られた。

 1942年1月21日、広東省東莞県石竜において戦死を遂げた。28歳の若さであった。

 この訃報を受けた三楽はショックを受けたという。実際、三楽はこの後病んでしまい、弟子の戦死の2年後、息を引き取る羽目になる。

 英霊となった小三楽は「名誉の戦死」として扱われ、東家三楽・楽燕の音頭で大々的に葬儀があげられた。

 大幹部たちが列席し、若くして散った浪曲師の冥福を祈ったという。墓は高崎市孝学院にあり、戒名は「龍譚院仁嶽勝居士」という。

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