広沢虎吉候補・広沢菊水(二代目)

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広沢虎吉候補・広沢菊水(二代目)

 人 物

 広沢ひろさわ 菊水きくすい
 ・本 名 青木 金三郎  
 ・生没年 1892年~戦後?
 ・出身地 大阪?

 来 歴

 広沢菊水(二代目)は戦前活躍した浪曲師。四代目広沢虎吉の筆頭弟子で、師匠の前名「菊水」を継承。師匠譲りの芸題と幅広い芸風で人気を集めたが、師匠よりも先にドロップアウトしてしまった。

 経歴は『浪花節名鑑』に詳しい。同書によると――

大正元年大阪松島花園町廣澤館にて四代目広沢虎吉、即ち初代菊水師の芸風に感じ入門を請ひて許され専心是にいそしむ技大に進み三年四月十五日大阪築港廣澤館に於て菊燕と名乗り初高座を勤む即ち非常なる賞讃を博し師の名を辱めざりき後愈愈研鑽の結果遂に築港廣澤館の座長を勤むるに至る、然るに芸道熱心の師は未だ慊らずとなし大正九年正月より上京して翌十年まで修業大に得るところあり同年五月、師匠四代目広沢虎吉を継承と同時に譲られて五代菊水に襲名し、今に至る親友派の暁将として名声噴々たり。

 師匠の広沢虎吉は菊水よりも1つ下というあべこべの弟子であった。師匠の一文字をもらって「菊燕」と名乗る。

 1920年正月に上京したそうだが、当時の新聞広告が完璧にないためわからない点も多い。

 1920年10月1日、麹町市場亭で浪花亭奴、浪花亭峰吉と共に三枚看板で出演している様子は確認できる。東京でも相応に受け入れられたようである。

 1921年5月、師匠の虎吉襲名に伴い、「菊水」を襲名。幹部として売り出す事となる。

 師匠譲りの芸題とユーモアを引き継いだらしく、「水戸黄門」「左甚五郎」「力士伝」等が売りであった。他にも「阿部豊後守隅田川乗り切り」「橋弁慶」「次郎長伝」「紀伊国屋」なども読んだ。

 1925年12月、金鳥レコードより「白浪五人男」「水戸黄門」を発売。

 1926年5月、ニットーより「清水次郎長」を発売。

 1926年9月、ニットーより「修羅八荒・柳橋船宿」を発売。これは京山幸枝、天光軒満月、日吉川秋斎の4人でリレー形式で吹き込んだ。

 1926年12月、金鳥より「岡野金右ヱ門」を発売。

 1928年の番付では、「親友派幹部」の一人として登録されている。

 1931年の番付では「前頭・十段目」。すぐ上に一風亭柳雪、日吉川秋斎、岡本玉治がいる。

 1932年1月、ショーワレコードより「弁慶千人斬り」を発売。

 1934年の番付では「前頭18枚目」。すぐ上には日吉川秋次(曾呂利一歩)、広沢當昇などがいる。

 1935年の番付では「前頭13枚目」。すぐ後ろには筑波武蔵が迫り、すぐ前には売り出しの桃山天声がいる。

 1936年の番付からはなぜか「東西検査役及若年寄」として別枠に入れられている。同じ枠は、京山花丸、浪花吉右衛門などがいる。

 1939年の番付では「検査役」。

 戦後の番付ではその名前を見る事が出来ず、消えるので戦時中に没した模様か。師匠・虎吉よりも早い夭折だった模様である。

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