若旦那から浪花節へ・寿々木亭越造

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若旦那から浪花節へ・寿々木亭越造

 人 物

 ・本 名 荻野 房次郎
 ・生没年 1884年2月27日~戦後?
 ・出身地 東京 神田大和町

 来 歴

 寿々木越造は戦前活躍した浪曲師。寿々木米若とはまた別の系統の人で(元を辿れば一緒だが)、独自の関東節と啖呵で注目を集めた。実力はあったが中看板で終わったのが惜しい。

 経歴は『読売新聞』(1928年7月21日号)に詳しく出ている。元は菓子屋の若旦那であったという。

 菓子問屋の坊ちゃん けふ初放送の寿々木越造
 今日の浪花節『加賀騒動』を放送する寿々木越造さんは、明治十七年神田大和町の大和屋と云ふ菓子問屋の倅に生れました。十六の時に石田龍之助の弟子となつて蘭菊と称し、明治四十三年頃龍之助の死後、二代目越造の門に入つて其の後三代目越造を襲名し今日に及んでゐます。端物を得意としAKでは今度が初放送です。

  一人目の師匠、石田龍之助に関してはよく判らない。なぜこの人の弟子に入ったのかも判然としない。

 二代目越造は『芸人名簿』にある。「壽々喜亭越造  (盲)和泉安太郎 (明治二〇、一〇、)」とある。盲人の浪曲師だった関係から師匠の介護も行っていたようである。

 その下に「吉田蘭菊 三 大和一九 荻野房次郎(明治一七、ニ)」とあるのだが、これが多分三代目越造であるのだろう。また、生年は「歌舞音曲趣味の人」に詳しく出ていた。ただ、ここの記載では「荻野房太郎」となっている。

 師匠より年上の弟子という珍しい関係であった。

 東京の寄席や巡業で腕を磨き、主に端物や侠客物を得意としたという。後に関西節に転向した米若と違い、古風な「関東節」を磨き上げ、寄席の中堅として納まる事となった。

 レコードも数枚吹き込んでおり、『明烏』『森の石松』などがある。歯切れのいい芸だったようだ。

 長らく「寿々木亭」を名のっていたが、親類弟子の米若が「寿々木」で売り出したことにより自身も「寿々木越造」と改名している。

 1928年7月21日、JOAKに出演。「加賀騒動」を口演している。

 その後も寄席の中堅として活躍を続けたが遂に大看板になる事はなかった。

 1943年大晦日、「大利根太郎・江戸川浪六二人会」に出演。この時客席にいたのが正岡容である。

 この印象を正岡容は『寿々木越造を聴く』という随筆に書き残している。

その次にだしぬけに久しぶりの寿々木越造がでた。
意外さに私は目を瞠った。事変が始まったばかりのころ金車の昼席で、「蓮華往生」の馬込あたりの辻堂で大雷雨に腰なまめ元が悶絶する媚かしい一席を聞いて以来、絶えて久しい対面だった。「堅いものを演れ演れと云われているが自分は不得手ゆえ、きょうは義士を演るが、それもあくまで自分流に役おぐらで云者の義士を演る」 こうした意味のことを越造は、まくらで云った。私のような生世話物作家には、他人事とはおもわれない、心に浸み入る言葉だった。 そう云えばあのときの「蓮華往生」には、と、国貞画中の艶場面を、しずかに私は心の中繰返してみた。
やがて演りだした越造の噺は、例の落語の「淀五郎」だった。しかも「淀五郎」とは、でんで行き方も、人物も、ちがっていた。蔵の由良之助たることは御定法通りだったが、判官様は淀五郎ではなく上方下りの市川高蔵で、妹と二人、深川に暮らしている。その不遇な上方役者に五年目で判官の役が付いて稽古のときにはすこぶる上出来なのに、いざ初日が開くとでんでなっていない。 由良之助は鳴物入りで花道の「つけぎわ附際から六法踏んで引き下がり、仕方がないので石堂、薬師寺が判官の首を打ってチョーンと幕にしてしまう。 心配して妹は柳島の妙見さまへ願かけをするが、高蔵は明日も大星があいつ六法踏んで引き下がるなら彼奴殺して自分も死のうと本身の短刀を買って楽屋入りをする。ところがその日はこれほどの悲痛さが満面に溢れているのでおよそすばらしい出来の判官となり、さんざ團蔵にほめられた上、きのうはお前は判官になれた嬉しさが顔中に漲っていた故、少しも役の性根になっかつせん。ていなかったのだぞと戒められる。 はじめて整然と「芸」の真精神を悟った高蔵は、やがてめでたく市川新藏を襲名出世するという筋なのであるが、さらにおもしろかったことにはこの人、かねて私は本所の方で駄菓子屋を営んでいるとか聞かされていたのであるが、なんと今夜、昔は宮戸座に立て籠っていたあの浅尾工左衛門(いまの多賀之丞の実父)の鬼丸時代の子役で、そのころのガラス写真には自分の稚ない舞台姿ひきごとがのこっていますと挿話でこう云ったことだった。何だか私は明治時代の覗眼鏡でも見せられているようなおもいでなつかしかった。

 そして越造の節や歌い廻しをこう論ずる。

 それには越造の節。何とも云えず、仇っぽい。会話は昔のたんか人としたら拙い方だろうし、いま聴いてみてもいやでないまでも平凡無味というところであるが、嫋々とした歌い尻だけは遠つ日の関東古調の忘れ形見で、瞼が熱くなるほど好もしい。と云っても私は徒らなる回顧低徊趣味のみで、関東古調を渇仰しているものではない。昔の節調の方が今日のそれに比べてよほど、美しく、清らかな涙で心を洗ってくれるからである。でもこの人の節、もういまが最後の聞きどきだろう。あと恐らく一年と経って聞いてみたら、もうまざまざと卒塔婆小町の悲しみを見せつけられるにちがいない。新内の岡本宮染老に、いまから五、六年前、ちょうどこのいまの「寿々木越造」を聞いた場合と同じ印象のときがあったっけ。

 しかし、結論はこうである。

 しょせん越造は棄てがたい節だけれど、所詮が中看板の芸格である。この人の運命はまずまずこれだけのものとしてしまっても不当ではなかろう。

 戦後も健在だったらしいが第一線から退き、間もなく亡くなった模様。

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