二代目八洲東天を継いだ八洲東郷

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二代目八洲東天を継いだ八洲東郷

 人 物

 八洲やしま 東郷とうごう
 ・本 名 大塚 隅男
 ・生没年 1904年1月12日~1980年代後半
 ・出身地 岡山県 岡山市

 来 歴

 八洲東郷は戦前戦後活躍した浪曲師。芸豪東天門下の中でも指折りの芸豪で、師匠に指名されて「二代目東天」を継いだこともある程。戦後は日本舞踊と浪曲を合わせた舞踊浪曲などで話題を振りまいたが大看板になり損ねたのが残念であった。

 経歴は『東西浪曲大名鑑』に詳しい。

 岡山市西山内広石の出身。大正9年11月25日、彼が16歳の年に、浪曲家たらんと志して芙蓉軒東天(後の初代八洲東天)に入門。   
 芸名”芙蓉軒東太郎”と名付けられ、入門したその月の内に福岡県久留米市の、戎座で初舞台を踏んだ。師匠の八洲東天という人は、初代京山恭安斎門下の、京山恭花の弟子に当り、京山駒吉から芙蓉軒夢想兵衛、芙蓉軒東天、京山東天を経て八洲東天となった人で、浪曲黄金時代の大看板の一人である。寄席打ちとして並ぶ者なき名人と言われたが、劇場に出演しても他の大家に較べても決してひけをとらなかったという。
 大正末期には、東天、呑風、吾一の三人が看板を並べて活躍し人気を博したのがキッカケで、3人組の興行が大流行したとも言われている。東郷は、その東天の高弟にあたり、美音とは世辞にも言えなかったがみごとな芸の持主であった。師匠が芸名を変える度に彼も改名し、その後京山東太郎から二代芙蓉軒夢想兵衛、そして八洲東郷となった。師の東天は昭和31年に67歳で他界したが、東郷がいっとき”二代東天”を継承していた事もあった。
 大正2年に彼は、東京の初代港家小柳丸の許に修業に行っていた事もあり、東天にない小柳丸独得の芸を得て勉強していたが、9月1日の大震災にあって東京を去った。
 その後も上京の時には小柳丸に可愛がられ、木村松太郎と共に松竹の劇場に出演して活躍した。
 東郷は、終生モタレ読みに終って天下をとるまでには至らなかったが、師の東天、東京での小柳丸から得た浪曲芸は、多くのファンを喜ばせたという。奈良に早くから居住して、第一線から姿を消しているのが残念だ。

(十八番) 「木津勘助」 「慶安太平記」「よもすがら検校」 「最後の大石」「妙海尼」「不破数右衛門」

 これで経歴の殆どが判ってしまう。

 師匠同様に悪声で、節には難があったというが啖呵と演出のうまさは若手の中でもピカ一だったそうで、関係者を唸らせたという。

 また、上にもあるように港家小柳丸や木村派の東京浪曲界とも懇意であった事もあり、慶安太平記やよもすがら検校など大阪では余りやり手のない話を演じられるのも強味であった。

 ただ弟弟子の八洲天舟と違い、ラジオやレコードには消極的であったため、記録は少ない。寄席で忙しかったのだろうか。

 1930年代初頭、師匠の東天が上六ホテルなるホテルを経営し、そのマスターに納まった事もあって、初代から直々に指名されて「二代目東天」を襲名。

 1935年発行の『東西浪界写真名鑑』では「二代目八洲東天」という形で記載されている。

 しかし、ホテル事業に失敗した東天が復帰したため、師匠に名跡を返すという変なこともあった。しかし、東郷はそんな師匠を敬愛し続けた。

 戦後は奈良に移住し、ここを中心に活躍。関西では人気があり、掛持ちの仕事を得るくらいであった。一方、奈良から出てこない、関東や大阪への中央進出への熱意がなかったために、すさまじい芸を持ちながらも遂に大看板にはなり得なかった。

 1950年代後半から訪れた浪曲不況の中で、舞踊浪曲という芸を編み出し、日本舞踊家と共に行動した。人気はあったようだが遂に定着する事はなかった。

 1955年には師匠の前名「芙蓉軒東天」から着想を得、「芙蓉軒夢想兵衛」となんだか禅僧のような芸名に改名している。

 1959年4月25日、毎日放送の「浪曲研究会」に出演し、「木津勘助」を読んでいる。

 昭和末まで健在であったが、1970年代には既に隠棲し、「OB」扱いとなっている。それでも浪曲親友協会には籍だけ置き続けた。

 一部資料では「1982年9月12日没」とあるのだが、1985年の『日本演芸家名鑑』に名前が出ているので、それは記憶違いだと思われる。

 没年は日本演芸家連合が出していた『演芸連合』に出ていたと記憶するのだが不肖メモを取り忘れた。確か昭和の末に亡くなったはずである。

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